
- 作者: 早島鏡正
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 1995/11
- メディア: 新書
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真宗の家庭で朝夕に読誦される『正信偈』が、これほどまでに美しいものだということに、どうしてこれまで気づかなかったのか、不思議でならない。
いや、難しい箇所はメチャクチャ難しくて、私などにはまだとても歯が立たない(難解な理由は、3/15のエントリーで少し書いてみた)。
しかし例えば次のような箇所の、意味がすっと胸に落ちたときの衝撃のような感動を、なんと表現したらよいのか!?
極重悪人唯称仏〔ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ〕
我亦在彼接取中〔がやくざいひせっしゅうちゅう〕
煩悩障眼雖不見〔ぼんのうしょうげんすいふけん〕
大悲無倦常照我〔だいひむけんじょうしょうが〕「極重の悪人は唯〔ただ〕、仏を称すべし。
我亦〔われまた〕かの接取の中〔なか〕に在〔あ〕れども、
煩悩、眼〔まなこ〕を障〔さ〕えて見〔み〕えずと雖〔いえど〕も
大悲、倦〔ものう〕きこと無〔な〕く、常〔つね〕に我〔われ〕を照らしたもう」といえり。
(p174)
大悲とは、阿弥陀如来の大いなる慈悲という意味である。
だがこういう時に、感動している自分に全力でブレーキをかけようとするのが、私のへそまがりなところである。ひょっとしたらこれは「暗号を解読した快感」に過ぎないかも知れないじゃないか。いや、「暗号を解読した快感」を軽んずるつもりではないが。
しかし、経文に限らず漢文は、時として尋常ならざる美しさを宿すことがある。
感動の方向は違うけど、月並みながら私は杜甫の『春望』(「国破山河在…」というアレです)が、こよなく美しいと感じる。
あるいは、これも感動の方向は違うが、『史記』「刺客列伝荊軻〔けいか〕伝」の、次のような文章の迫力。
秦王、図を発〔ひら〕く。図窮〔きわ〕まって匕首見〔あら〕わる。因〔よ〕って左手に秦王の袖を把〔と〕り、而して右手に匕首を持ちて之を揕〔さ〕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自〔みずか〕ら引いて起〔た〕つ。剣を抜〔ぬ〕く。剣長し。其の室を操〔と〕る。惶急〔こうきゅう〕にして、剣堅〔かた〕し。故に立〔ただ〕ちに抜〔ぬ〕く可〔べ〕からず。荊軻、秦王を遂〔お〕う。秦王、柱を環〔めぐ〕りて走る。……
(陳舜臣『中国の歴史(二) (講談社文庫)』p225より)

- 作者: 陳舜臣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/11/08
- メディア: 文庫
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