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阿満利麿『法然の衝撃―日本仏教のラディカル』(ちくま学芸文庫)

法然に関して、もうちょっと知っておきたいというのは、いくつかある(無数にある?)自分自身に課す宿題の一つであるが、タイトルで選んで読んでみたところ、事前に想像したものとちょっと違った。
第1章では、近世まで仏教がなかった沖縄・宮古島における仏教受容の過程が現在進行形で語られる。宮古島の住人は、近年になって仏教式の葬式や祭祀を急速に受け入れつつあるが、一方で、立派な墓をつくるが墓参りはおこなわない(p17)、遺骨は拝むが仏像は拝まない(p23)など、伝統的な死者祭祀には変化が生じていないことが述べられる。
第2章では、第1章を踏まえて話題を日本の飛鳥時代以来の仏教受容の歴史に転じ、仏教が当然ながら神道など日本古来の信仰との間で大いに摩擦を生じたことを述べ、神仏習合や本地垂迹が従来言われているよりずっと深い根を持つものだったのではないかという問題提起をおこなう。
第3章にして、ようやく法然が登場する。ただし本書においては、法然の生い立ちや「専修念仏」という思想の完成に至る過程が語られるわけではない。いきなり専修念仏が既存の仏教に与えた影響、もっと言えば既存の仏教との間で生じた摩擦について述べられる。
例えば著者は既存の仏教の特徴を「苦行主義」と表現し、当時の有名な武将であった熊谷直実が専修念仏に帰依した後、京都から関東に帰るときに「阿弥陀仏(のおわす西方)に背を向けるわけにはいかない」と馬の背に鞍をさかさまに置いて背を西に向けず関東に下ったという有名なエピソード(p78)や、入門して一〜二年ののちに書いたと言われる「置文」(p103〜104)に触れ、これらが「専修念仏の立場からいえば、逸脱寸前のぎりぎりの限界にあった」(p104)と述べる。つまり熊谷直実は、本人は自覚していなかったかもしれないが、苦行主義志向だったのだ。
他にも例えば第5章では、専修念仏の後継者である一遍が神明とのつながりが深かったことが述べられる。熊野本宮で託宣が下ったエピソード*1にも言及がある(p175)。しかし専修念仏から必然的に導かれる「神祇不拝」という立場からすると一遍の態度は逸脱であることが述べられ、「神祇不拝」が神仏習合や本地垂迹と呼ばれる神仏一体論から強い反発を受けていたことが論証される。
とまあこんな具合で、各章において著者が自ら問題設定したテーマに対して論証をおこなうという形式の本である。考えてみれば「知識」というものは、床の間に飾られた置物や骨董品のような静的なものではなく、絶えず問いというチャレンジに曝されることを運命づけられているものだから、著者のような態度こそが正しいのかも知れない。法然なら法然という人物について、まず生い立ちを述べ、思想の概略を説明し、主要な著書の要約を述べ、後世に与えた影響を概観するような本は、探せばいくらもあるだろうが。
意地悪な見方をすれば、著者は多作な人だが、「生い立ちを述べ…」みたいな本は一人の人物について一人の作者が書けるのはせいぜい一冊なので、たくさんの著作をものしようとしたら、どうしても本書のような形式にならざるを得ないのかも知れない。

*1:私のエントリーでよければ https://watto.hatenablog.com/entry/20071008/p1 参照