リアルの知人から招待された美術展を観に行ったついでに、近かったので行ってきた。
リアルの知人から招待された美術展というのは、これからボロクソに悪口を書くので固有名は出さない。地元の芸術家さんたちが、毎年開いている展覧会らしい。やたらとサイズの大きい抽象画が多かった。
ところが…全っ然、わからなかったのだ、その良さが、私には。
乱暴な―稚拙な、と言ったほうがいいんじゃないかと思えるような―色彩の洪水。よくある悪口を借用するなら「さかさまに掲げてあっても、作者以外にはわからない」んじゃないかと思うような絵ばかりだったのだ。
私に美術を観る目がないだけなんじゃないかとも思ったが、「これはいかんだろ?」とはっきり言えそうな作品もあったぞ。「眼差し」と題する油絵とコラージュの組み合わせで、興福寺の阿修羅像の様々な角度からの写真を使ったものだ。
阿修羅像は、美術品だろ?他人の造ったものだろ?
阿修羅像の眼差しがいいというのなら、オリジナルの阿修羅像を観るにしくはない。この作者も芸術家であるなら、阿修羅像を越えようとしなくてどうする?阿修羅像という他人の作品に乗っかるだけでいいのか?
結局、この展示会で私が唯一「良かった」と思えた作品は、子どもたちの横顔を具象的に描いた一枚の絵だけだった。
結局、私には抽象画がわからないんじゃないか、という感想を抱きながら、すぐそばで「カンディンスキーと青騎士展」をやっていたので、そのまま帰ると後悔しそうな気がしたので、自分の審美眼の確認のためつーか、口直しのためつーか、観に行く気になった。
名古屋では同じ時期に「ゴッホ展」もやっており、そちらの方が多分人気は高いだろうなと思ったが、こっちにしたのは単純に近いからという理由である。
追記:
参考のため、愛知県美術館発行のカンディンスキー展のチラシを引用、紹介させていただきます。
追記おわり
チラシ裏面の説明によれば、カンディンスキーは抽象絵画の開拓者の一人と言われる人物で、青騎士というのは、そのカンディンスキーをリーダーに第一次大戦前のミュンヘンに集った芸術家グループ。
カンディンスキーは初めレンバッハという肖像画の大家に師事し、飽き足りなくなって抽象画に転じたという。その師匠のレンバッハの「自画像」や「ビスマルク肖像画」(あのプロシア宰相のビスマルクだ)なども展示されていたのだが…
そっちのほうが、いいじゃないか!
そうとしか見えなかった。私にはそうとしか見えなかった。いや、具象画に飽き足りず抽象画に進んだというストーリーは素人にもわかりやすいんだけど、悲しいかな彼ら芸術家の目を、私は共有していないらしい。
もっと素人臭いことを言うと、肖像画など具象画を描くより、抽象画を描くほうが、時間がかかるだろうか?そうとは思えない。
しかし一方で、ピカソはじめ具象画は描けるけど抽象画をあえて選んだ芸術家が多数存在することは、間違いのない事実なのだ。
疑い始めると、「そもそも私は美しいと感じたことがあるのだろうか?」ということまで疑わしく感じられ、不安はむしろよけいに高まった。
お土産売り場で、展示品の抽象画をペーパーウエイト(西洋文鎮だな)やらなにやらに加工した小物をいっぱい売っていた。確かに綺麗だと思った。欲しいとまでは思わなかったが(モノを増やすのが嫌いなのだ)。
色彩感覚一つとっても、やはり彼らは只者ではないのだろう。その価値を共有できぬ、もどかしさ。
入場券で常設展も観られるので、観てきた。日本画とか、さまざまなジャンルのものが展示してあった。「峠四題」と題された日本画の連作が、最初の方のスペースに掲げてあった。
美しい、と思った。
日本画独特の透明感のある画材で丁寧に描かれた、深山の樹葉が、実にリアルだった。
日本画というのは、油絵に比べると、スペクトルが圧倒的に狭い。つか油絵の表現できる色彩範囲は、たぶん人類が手にした表現手段の中で、いちばん広いだろう。なにせ材料の顔料さえ手に入れば、どんな色でも表現できるんだから。写真もカラーディスプレイも「三原色」という制限のために、原理的に油絵に及ばない。
しかしその日本画なら日本画という縛りの中で、できるかぎり現実に近づこうとする努力のさまが、美しいのだ。制限された中での写実性こそが、私には美しいと感じられるのだ。
愚考するに、そういう縛りのないことが、油絵を抽象画に向かわせた一因かも知れない。知らんけどね。
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