「謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー」は続けます。必ず完結させます。しかしその前に、ネットのホットな話題に乗っからせていただきます。
私の結論はタイトルに示した通りです。結論に至る理屈を捏ねます。
スポンサーリンク
こんな本を読んだことがあります。読んだのはだいぶ前ですが、私がこれまで読んだ本すべての中でも十本の指に入りそうな名著だと思っています。
同書の内容を乱暴に要約すると「タブーは境界から発生する」ということです。
食のタブーを例にとります。食には文化により様々なタブーがあります。イスラム教徒は豚を食べません。ヒンズー教徒は牛を食べません。このあたりは有名どころだと思います。ところでユダヤ教(とキリスト教の一部宗派)では、旧約聖書の記述に従って「ウロコのない魚」すなわちイカタコエビカニを食べないことはご存知でしょうか?
日本人はクジラを食べると言って欧米から非難されます。その日本人は、中韓文化の犬食に対しては、欧米の尻馬に乗って批判する側に立つ人が多いように見受けられます。その欧米の中でも、英米文化圏では馬を食べることは犬食に近いタブーです。一方フランスなどラテン文化圏ではバクバク食います。欧米人の中でも、お互いの文化を尊重する人もいれば、嫌悪をあらわにする人もいるそうです。このことは英会話スクールのネイティブ講師に話題を振って、じかに確かめたことがあります(米国人だったので「私は食べない」と言ってました)。
なぜこのような差異が発生するのか、文化人類学の立場からは、一刀両断、明快な「解答」が示されるのだそうです。
すなわち人間の認識には「世界を二つに分けて認識する」という特徴があります。食に関していえば「食べていいもの」と「食べてはいけないもの」に分類するのです。
物理的に喫食可能なものであっても、食べてはいけないものが存在します。人間を食う奴はいません。ウンコを食う奴はいません。正常ならざる環境下においては、私も人間を食ったりウンコを食ったりすることがあるかもわかりませんが、少なくとも今は御免蒙ります。
そうした極端な例でなくても、あるいは衛生的な理由により、あるいは文化的な理由により、物理的に喫食可能であってもコミュニティの中では「食べてはいけないもの」として認識されるものが、必ず生じるのです。もし「食べてはいけないもの」を食べようとしたら、まずは他のコミュニティの構成員~家族を始めとする~の咎めを受けるでしょうし、多くのコミュニティの構成員は~つか我々は~自らの中に「食べてはいけないもの」の規範を獲得していることでしょう。
そして、「食べてはいけないもの」をどのように認識しているかというと、上記のような理屈をくどくどと辿って認識しているわけがないんですよね。直感的に「あ、これはアカン!」あるいは「キモい!」と判断するのです。「キモいから食べられない」と考えるのです。
性に関しても、二分法の理論が教科書通り適用できます。文化人類学において「近親相姦のタブー(インセスト・タブー)が存在しない文化はない」というのは、ごく初期における著しい成果のひとつです。
しかもその「近親」の定義が、文化によってまるで異なることも、興味深いところです。古代日本においては、異母兄弟がインセスト・タブーの対象外だったことは、よく知られていると思います。飛鳥時代、奈良時代の天皇家家系図は、ちょっとすごいですよね。逆に中韓においては、同姓同族と見られると、家系が分れたのがどんなに昔であっても、近親婚として婚姻が認められなかった時代が長く続きました。厳密には中国と韓国では「同族」の定義が違うようですが。また韓国では2005年の民法改正によって、法律的な制限はなくなったそうです。
中韓に言及するとネットには理性を失う人が少なくないので念のために書いておきますが、どっちがいいとか悪いとかいう価値判断は一切行っていません。そういう価値判断は、知的誠実さからもっとも遠い態度です。線の引き方は何種類も何種類もあるということが、ここで言いたかったことです。
そしてインセストタブーも、当人には「キモい」として認識されます。ビートたけしの傑作ギャグ「女房とセックスなんてキモいことできるか!?」は、この感情を踏まえています。
性のタブーは近親婚に限りません。同性愛も、いや女性と男性というコミュニティにおける役割の分化自体が、どの文化圏においても「ジェンダーとセックスの違い」としてホットな議論の対象でありつづけました。これからも議論の対象でありつづけるでしょう。これは人間の内面で「女と男を二分したい」という認識の傾向が確かに存在し、それに基づくものだと考えます。その中間に位置づけられそうなものは、それがなんであれややもすると攻撃・排斥の対象となりかねない、ということを、まず直視すべきだと考えます。直視することにより、何より自分自身が楽になれる可能性があると考えるからです。
「男は男らしくあるべきだ」「男はこうあるべきだ」という思い込みが、現実社会のなんらかの困難に直面したときに、選択肢を狭め自らを苦しめることがあるのは、小町なり増田なりに行けば、実例がいくらでも簡単に手に入ります。
もし同性愛を「キモい」と公言し、同性愛者に対してあからさまな攻撃姿勢を見せる人がいたら、私はまずその人自身の中にある同性愛的傾向の存在を疑います。彼または彼女の自分自身に対する嫌悪感が、彼または彼女の攻撃性の原因になっているのではないかと疑います。
そういった傾向は、何も同性愛に限ったものではなく、政治的転向を経験した人間が元の自分の属した陣営に対して誰よりも強い批判者になるであるとか、禁煙した人が喫煙者に対してより厳しい態度をとることがあるとか、そういった現象と共通していると考えます。自らを、二分法の境界線からより遠い場所に置きたい、より安全(?)な場所に置きたいという内心の欲求によるものでしょう。
ただし、タバコのようにすっぱり止められるものなら、まだマシだと思います。私事ですが禁煙してから10年あまり、ようやくタバコという存在そのものを忘れかけたような気がします。抑制しているつもりですが、タバコを吸いたいという欲求がどこかに残っている限り、タバコに対して完全にフェアな態度を取ることは難しいかもしれません。
性に関しては、タバコのようには欲求を完全にゼロにすることは可能なんでしょうか? できないんじゃないかと思います。
そうすると、同性愛者に対してであれ、何に対してであれ、あまりに極端な態度を取り続けることは、結果として自分を苦しめることにもなっているのではないかと想像します。そしてそれがさらに極端な態度をとらせることになるという、負のループに陥ってしまっている人も少なくないんじゃないかと想像します。
一方で“「女性はみんなバイかレズ。ストレートなんていない!」 全世界が驚愕中の最新研究”という記事も、今月の初めにホッテントリ入りしたりしました。この説もまた極端で正しいのかどうかはにわかに判断つきません。しかし、自らの中に同性愛的傾向を抱えている人が、自らの傾向を自覚し容認することによって、ラクになれることもあるんじゃないかなという印象を強く持ったので、エントリーに仕立ててみた次第です。
繰り返しになりますが『タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書)』は名著なんで、興味を持った方には一読をお勧めします。Amazonを見に行ったら新刊が品切れでマーケットプレイスから入手するしかないことが残念です。
スポンサーリンク