坂本龍馬の悪口を書くぞ~!w
01861/01862 CXX02375 わっと 日本のヒーローの条件6・敵は身内にいる
( 3) 98/03/06 00:10
(昭和)星飛雄馬…父・星一徹。なにせ自分の息子を再起不能にしちまう
んだから(^^;
(明治)坊ちゃん…赤シャツは上司になる教頭先生です。
(幕末)沖田総司…ちょっと苦しいけど、新撰組の掲げた時代に逆行する
イデオロギーこそが、彼ら自身の悲運を招いたとは言
えないでしょうか。
(幕末)坂本龍馬…郷里の土佐藩では、上士・郷士が300年にわたって
対立していました。
(戦国)豊臣秀吉…徳川家康は主君・織田信長の同盟者です。
(室町)犬塚信乃…里見家に祟なす玉梓の怨霊は、八犬士の身近な人々に
次々と憑依しては災いを招きます。
(鎌倉)源 義経…兄・源頼朝。
(神話)日本武尊…のちに成務天皇となる腹違いの弟と、彼を帝位につけ
たい継母。98/03/05(木) わっと(CXX02375)
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坂本龍馬は、司馬遼太郎『竜馬がゆく』を始めとするフィクションによる虚像が、異常に大きくなっていると考えます。薩長同盟成立時においては長州の立場は薩摩より圧倒的に下、龍馬は何人もいた薩摩のエージェントのうち一人にすぎない、というのが歴史の実像に近いと考えます。以下の大部分は https://watto.hatenablog.com/entry/20141020/p1 に書いた内容の再掲です。
一坂太郎『高杉晋作』からの、少し長い引用になります。
晋作が琴平に潜伏していた頃の話である。二人の浪人者が晋作のもとを訪ねて来た。ひとりは久留米の古松簡二、いまひとりは水戸の斉藤佐次右衛門である。とくに斉藤は、薩摩藩の西郷吉之助の密命を受け、犬猿の仲にある長州藩との提携のために奔走しているという(『維新史料編纂会講演速記録』)。
≪中略≫
ところが斉藤の説得を受け晋作は、最初から相手にならなかった。それは憎悪の念からではない。このような重大事を、一介の浪人に持って来させる、西郷のやり方を疑ったのだ。こんな話に安易に乗ったら、長州藩の立場は最初から低いものとなる。晋作は、薩摩藩にその気があるなら、必ずや正式な使者を寄越して来ると考えた。薩摩藩としても、浪人を利用し探りを入れた程度のことであろう。同じころ、西郷は土佐の脱藩浪士で薩摩藩の庇護下にあった坂本龍馬を下関に送り込み、桂を説かせている。
ところが桂は軽率にも、龍馬の話に乗ってしまう。龍馬は下関に西郷を呼び、一気に両藩を提携させようと述べたのだ。この時期、西郷が下関に足を踏み入れるなどあり得ないことは、冷静に考えれば分かることである。桂ほどの男でも、藩主父子の復権を焦るあまり、判断を誤ったのだろうか。
案の定、西郷は桂に二週間も待ちぼうけを食わせたあげく、下関には現れなかった。恥をかかされた桂だが、話を持って来た相手が一介の浪人だから、文句も言えない。
(上掲書P201~202)
2ページおいて、薩長同盟締結の場面です。
慶応二年一月四日、木戸らは海路、大坂に到着。ついで京都二本松の薩摩藩邸に入った。そして西郷・大久保利通・小松帯刀・桂久武・吉井幸輔らと密議を重ね、薩摩・長州両藩を提携させることになる。
交わされた密約は、長州藩と幕府の間に戦端が開かれた場合、開かれなかった場合、勝った場合、敗れた場合などを想定する。その上で薩摩藩がいかなる政治工作を行い、長州藩を救うかというものだった。この時期、まだまだ慎重な薩摩藩は、積極的に長州藩と共に幕府と干戈を交えるような態度は示さない。それどころか、成文化された書面一枚すら作ろうとはせず、証拠は残らなかった。
不安にかられた木戸は、薩摩藩との間に交わされた密約を六ヵ条にまとめ、一介の浪人に過ぎない坂本龍馬に裏書を依頼した。龍馬がその権限を握っていたからではない。当然、薩摩藩首脳の裏書でなければ効力は乏しいのだが、それは不可能だったのだろう。
龍馬は少しも相違はないと、堂々と朱筆で記してくれたが、こんなものは気休めに過ぎないことを木戸自身が一番良く知っていたはずだ。押し寄せてくる長州再征軍を撃破し、藩主の罪を雪いでこそ、初めて長州藩は薩摩藩と対等な舞台に立てるのだ。
(同P205~6)
後の第二次長州征伐における勝利、戊辰戦争における奇兵隊他長州勢の活躍と、西南戦争における薩摩の自滅があればこそ、今日のわれわれには薩摩と長州が対等に近いというイメージができているのだと考えます。
ただし当然ながら、今日の虚像に対して龍馬本人は何の責任もありませんし、また極力虚像を排して実像だけを見極めようとしたとき、なおその時代的制約の下で龍馬が成し遂げた仕事は巨大であり龍馬はやはり偉大だったというのが私の認識なのですが。
薩長同盟成立直前、長州藩がシャレにならない追い詰められ方をしていたのは周知ですが、薩摩藩もまたギリギリまで追い詰められていたのです。藩領の大部分を占めるシラス台地は地味に薄く表高77万石に対して実収は半分程度と言われるのに加え、江戸中期からの桜島火山活動の活発化が追い打ちをかけました。また関ヶ原で徳川に盾ついた因縁もあり課される賦役は苛酷で、特に日本有数の大河である木曽水系の治水工事を命じられた「宝暦の治水」は、藩財政を破綻寸前に追い込むのみならず責任者の家老平田靱負始め84名に及ぶ自害者・病死者を出しました。まさにこの恩恵を受けた岐阜県南部出身者としては、彼らのことは生涯忘れてはならないと考えています。さらに琉球経由の大陸密貿易が幕府に発覚するという事件もありました。
もし私が薩長同盟成立のシーンを描くとしたら、と夢想したことがあります。薩摩からの武器供給に対する対価を、木戸孝允(桂小五郎)が提案します。実際このような実務を藩政の責任者が直々には行わなかったでしょうが、フィクションだからいいのです。
「弊藩は関ヶ原以来内なる殖産に努め、防長四白と称するコメ、紙、塩、蝋、陶器はいずれも海内随一を自負する特産品です」陪席した誰かに茶々を入れさせます「なんで四白なのに五つあるんですか?」「日本三大なんとかが三つで終わったためしはないだろう」こういうくすぐりを入れないではいられない性格なんです。すいません。
ここで端座して聞いていた西郷隆盛に、絞り出すように喋らせたいです「コメを…」そして堰を切ったように前述の自藩の窮状を告白させるのです「兵に食わせる兵糧を、くれてやってつあさい!」
「おお、防長のコメは日本一美味い! 薩摩のイモ侍ども、食って腰を抜かすなよ!」藩倉を開き米俵を運び出す長州藩士が言います。輸送船に積み込む共同作業に当たる海援隊員がそれに応じ「何を言うちょる! 日本一美味いのは土佐のコメぜよ」
監督する坂本龍馬は目を細め微笑して何も語らないのですが、傍らに立つ岩崎弥太郎ただ一人が、内面で言葉にならない何かを悟り、胸をたぎらせるのです。それは今日の言葉でいうところのwin-win関係の構築であり、交易、貿易による富の創出なのですが、それを言語化することができず、代わりにマンガ表現するのであれば背景にぶわっと炎が燃え上がり、その中からスリーダイヤモンドが立ち上がるのです…って実在の企業グループである三菱グループはエンブレムの使用を許してくれないだろうなぁ…
ちなみに日本一美味いコメを産するのは濃尾平野であることが科学的に証明されています。その証明を述べるスペースはありませんが、筆者は前述の通り岐阜県南部の出身で…
(つづく)
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