yarukimedesu さんとこのエントリー「人参失格(太宰治:人間失格のパロディ演劇)を第39回やみいち行動でやってきます。 - 大学院卒ニート、しやわせになりたい。 」経由。「観劇」というタグ作ってるくらいだから、たまに(年一〜二度)演劇を観に行く習慣がある。アングラっぽい雰囲気が好きなのだ。
とは言うものの今回は、場所が京都大学文学部学生控室、通称ブンピカというのに惹かれた。京都大学の近所に7年ほど住んでいたことがある。用もなく訪れるほどではないが、用があればぜひ行ってみたい場所の一つなのだ。
ただし開演が24:00〜(金) 、24:00〜(土)、19:00〜(日)と遅い。足は車を使えばなんとかなるものの、恥ずかしながら生活が完全に昼夜逆転していた学生時代とは違い、年取ってからの夜更かしはキツい。
しかし、やらない口実を数え上げるほど易しいことはない。仕事の時間と重ならないことをもっけの幸いと考えるべきと割り切って、深夜の高速に乗っかった。
交通費のことさえ考えなければ、名古屋−京都って近いんだよね。目的地に着くのに2時間ほどしかかからなかった。
貰ったパンフレットからスキャンした題字。どっかから怒られたら消します。
表紙イラスト。同上。表紙といいつつ表紙と裏表紙しかなかったけど。B4のコピー紙を折りたたんだ裏側は空白。
ブンピカは時が止まったかのように老朽化した文学部東館の一室。なんでだろう、地下にあると勘違いしていたけど、東館1階の西側入り口取っ付きにあった。「ピカ」は「地下」ではなく「控」だったのだ。サイズは学校の教室ほどだが、開幕30分前の開場と同時に、人が続々と集まってくる。50人以上は入ったんじゃないかな? 席が足りなくてスタッフの方が補助椅子を出していた。
開幕10分ほどで「やべ! こいつら只者じゃない!Σ(゚Д゚;」と悟った。
内容は「やさいおさむ」という名の人気作家が、自殺(心中)すべきか否か懊悩する内面を、6人の役者さんが独立した人格として演じる笑劇だったが、きっちり観客を笑わせるテクを持っているのだ。約1時間半の上演の間、客席の爆笑を途切れさせないことがどれほどの難事かは、ちょっとでも舞台に関わった人ならご存知のことでしょう。
特に脚本がすごいと思った。誰なんだこのスクリプトライター? パンフには役者さんの名前しか載ってない。
私の見るところ、彼らの使うテクニックの主力は「意味のずらし」だと思う。適切な用語があるかも知れないが、知らない。
これを説明するには、劇作家でもあったカミュが作った有名な小話を例に出すのが適切じゃないかなと思う。
精神病院で、入院患者がバスタブに釣糸を垂れているのを見た医師が…
医師「釣れますか?」
患者「釣れるわけがないでしょう。これはバスタブです」
特にダブルミーニングのオチのほうを、「虚実皮膜」の「実」のほうにずらすのがキモだと思う。
それだけじゃなく、パロディとか、時事ネタ、自虐ネタ、楽屋落ち、駄洒落など、様々な笑いのネタが駆使されていた。「経団連を使って圧力」とか政権に批判的な時事ネタも使っていたから、政府の御用メディアは問題視して宣伝してあげるといい。
しかし客席を爆笑で包むためには、シナリオの力だけで十分ではなく、演出と役者さんの演技力も伴っていなければならないのだ。
例えば若き日の「やさいおさむ」氏がリュックを背負って富士山に登る場面。役者さんが、古今の名画に描かれた富士の頂角が80度程度、北斎に至っては30度という鋭角である旨を、北斎と広重を混同しながらつっかえつっかえ説明する。ネタバラするとこれは太宰の屈指の名作短編『富嶽百景』の冒頭部のパロディなのだが、国土地理院が実測した頂角は120度であることを明かし、「ちょうどこれに相当する角度のものは…」と言ってヤマザキ「メロンパンの皮焼いちゃいました。」を取り出す。
文字で書いても笑えないよね?
で、そのリュックの「やさいおさむ」氏のところに、次から次へとわけのわからん登山客が通りかかる。例えばボロボロの服を着た男が息を切らしながら走ってきて倒れ込む。『走れメロス』のパロディである(ちなみにこの絶対的とも言うべき認知度を持つ短編は、太宰を扱った作品には欠かせない材料と見えて、井上ひさしの傑作戯曲『人間合格』でも不意打ちのように使われる。ただしあちらは涙を絞る方向にだが)。
メロス氏は「やさい」氏に水を求めるのだが、あいにく「やさい」氏は水を持っていない。そこで「代わりにこれではどうです?」と「メロンパンの皮」を差し出すと、メロス氏は「激怒した!」と言い捨てて舞台から消える。
客席は息もできない爆笑なのだが、悲しいかなそれをここに再現する手段を私は持たない。
あるいは、後の「やさい」氏が、自分は「野菜主義者」ではないと言いながら「野菜主義者」のサークルに入り、いつの間にかリーダーに祭り上げられてしまう。そこへ「野菜主義」の「同志」が、「野菜主義」を広めるためのアイデアなるものを次々と持って訪れる。
ある「同志」は、こんな提案をする「京都大学の時計台前の大クスノキを、ブロッコリーと取り替えてしまいましょう」
「やさい」氏は、こう突っ込み返す「それは大きいブロッコリーと取り替えるのか? それとも小さいブロッコリーを遠近法で置き換えるのか?」
文字で書いても読者の「そっちなの?」という内心の突っ込み返しくらいなら期待できそうだが、それを満場の爆笑につなげるにはどうしたらいいかは見当がつかない。
思うに、それがライブの力というものなんだろう。10年くらい前、何かのきっかけで、地元で愛知教育大学の学生を中心とする「把゚夢〔ぱむ〕」という劇団の公演を何度か見たことがある。鴻上尚史のシナリオを上演したもので、大変楽しませてもらった。だけど、力演とはいえ失礼ながら学生演劇ならではの力不足のようなものを感じないでもなく、オリジナルの「第三舞台」のビデオも何本か取り寄せて鑑賞してみた。「第三舞台」というのは鴻上が主宰する(していた)劇団である。圧倒的に洗練されてはいたが、心動かされる度合いではライブに勝るものではなかった。つまり「把゚夢」のほうがよかった。
誰もが「生」には他に代えがたい感動があることを知っている。そして誰もが、その正体が何かを見極めようと試みる。それに部分的に成功した人がいないとは思わない。しかし完全に成功した人は、まだいないんじゃないかな?
追記:(6/30)
ヤルキメさんwのエントリー http://yarukimedesu.hatenablog.com/entries/2015/06/30 によると「メロス」氏ではなく「メロン」氏だったそうです。
凝りすぎやろ!
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