仏典をちびりちびりと読む趣味がある。8月4日のエントリー を書いたのがきっかけで、以前からまとまったらネタにしようと思いつつ、まとまらなかったのでまだ書いていなかったネタがあったことを思い出した。まとまるのを待っていたら、いつのことになるやらわかったものではないので、まとまらないまま備忘メモってことでネタにしてしまう。
『法華経』の「観世音菩薩普門品」の偈文でない散文の末尾と、『維摩経』の「菩薩品」の末尾には、そっくりのエピソードが登場する。
「品」とは「ほん」と読み、ほぼ「章」と同じ意味である。偈文というのは、まあ詩である。ただし文字数を揃えているだけで、韻を踏んでいるようには見えない。漢文で平仄を合わせるのは大変なので、そういう方便が用いられているのだろう。『法華経』では、だいたい各品を偈文で締めている。偈文でない部分を散文と呼んでいいかどうかは、わからない。このエントリーでは、便宜上そう呼ばせてもらう。
「観世音菩薩普門品」をおおざっぱに説明すると、ブッダが霊鷲山で法華経を説く集会に結集〔けつじゅう〕した聴衆のうちの一人であった無尽意という名の菩薩が、やはり参加者の一人であった観世音菩薩について、「あの方はどういうお方なのですか?」と質問したのに対し、ブッダが「彼は実はすごいヤツなんだよ」と説明する章である。その説明には、観世音菩薩が三十三種類の姿に変身して、迷える衆生を救うという内容が含まれる。観音像が十一面観音、千手観音、馬頭観音などさまざまな姿で表現されるのも、西国三十三箇所、坂東三十三箇所など、観音霊場が三十三ヶ所セットにされるのも、この章に基づいている。
「観世音菩薩普門品」の偈文が、いわゆる「観音経」である。その直前の箇所に、あらすじを述べると次のような部分がある。観音の功徳に感極まった無尽意菩薩は、千金に値する宝珠の瓔珞〔ようらく〕すなわち首飾りを外して、観音に献上しようとした。初め観音はそれを固辞したが、ブッダに促されてそれを受けると、神通力で瓔珞を二つに分け、一つをブッダに捧げ、もう一つを、『法華経』中ではブッダと並んで最重要の如来である多宝如来の宝塔に懸けた(坂本・岩本『法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)』P258~261)
『維摩経』の主人公である維摩詰居士は、在家の仏教徒でありながら、仏弟子や菩薩が束になっても敵わないほど大乗仏教の真髄に精通している。 その維摩詰が病床に伏していると知ったブッダは、仏弟子や菩薩衆に見舞いに行くよう促した。ところが仏弟子や菩薩衆は、「そんな修行で悟りが得られるか」てな具合に維摩詰からやり込められた記憶を口々に語り、尻込みするのだ。
結局、ブッダの秘蔵っ子である文殊菩薩が維摩詰の病気見舞いに行くことになるのだが、その直前にブッダは須達多〔スダッタ〕に見舞いに行かないかと尋ねて断られる。スダッタは大富豪で、仏弟子というよりブッダと教団のパトロンである。祇園精舎を寄進したときに、土地を買収するのに土地と同じ面積の金貨を敷き詰めようとしたエピソードが有名である。これがどっかの国だと、金貨じゃなくてゴミが出てくる…やめとこ。
『維摩経』「菩薩品」においては、須達多がバラモンや生活に困窮した者を集め飲食を布施しようとしていた。古代インドにおいては、修行者と貧民は明確な区別がなかったようだ。祇園だって正式名称は「祇樹給孤独園〔ぎじゅぎっこどくおん〕」と言う。孤独な行者に食を給する場所という意味だ。漢訳だけど。
そこへ維摩詰が現れた。そして須達多に、飲食の布施ではなく、法の布施を行うべきだと主張した。須達多が「法の布施とはどのようなものですか?」と尋ねると、維摩詰は「菩薩の相によって引き起こされる大慈」「正法の摂取によって引き起こされる大悲」など33項目の説明をおこなった。この部分は難解で、ちょっとやそっとでは意味がつかめない。つか『維摩経』は全体的に、ドラマ的な展開を記述する文章と、難解な仏教哲学を説く文章が、交互に現れるのが特徴である。ともあれ、維摩詰の説明を聞いただけで、集まったバラモンのうち200名が悟りの境地に達してしまった!
恐れ入った須達多は、百千金の価値のある真珠の首飾りを外して維摩詰に献上しようとした。維摩詰はそれを断ったが、須達多が「では、あなた様がこれはと思うお方に差し上げてください」と再度勧めると、維摩詰は首飾りを受け取り二つに分けて、一つは布施に集まったバラモンや貧民の中で、最も貧しく最も軽蔑されていた者に与え、もう一つはドゥシュプラサハ(難勝)如来という仏に献上した(高橋・西野『梵文和訳 維摩経』春秋社P81~86)
なんつーか、そっくりでしょ。
どっちかがオリジナルで、どっちかにそれをまねたエピソードを後世の人がくっつけたか、あるいは両者に共通のアーキタイプがあるのかも知れない。
『法華経』と『維摩経』の成立時期は、諸説あるがだいたいほぼ同時期のA.D.100年前後と言われる。どっちが先かは決められなさそうだ。つか 8月4日のエントリー にも書いたが、我々が目にする古典は、後世の人間の改変や付加を経たものなのだ。同一性保持権など著作権の概念が成立したのは、ごくごく近世に至ってのことにすぎない。
個人の意見としては、なんとなくだけど、『法華経』のほうが先で『維摩経』が真似たんじゃないかという気がする。観音菩薩が首飾りを献上した多宝如来は、前述の通り『法華経』中においては釈迦如来と並ぶ最重要の如来である。一方、『維摩経』で維摩詰が首飾りを捧げた難勝如来の名は、『維摩経』では別の箇所にもう一度だけ出てくるものの、この箇所が初出でありやや唐突の印象が否めないという理由からだ。
『維摩経』に難勝如来の名前が二度目に出てくる場面が、また極めて興味深いのだが、調べては書き調べては書きしてるもんだからなかキリがつかないので、一旦ここまでを「その1」として公開します。
この項続きます。つか完結されられるのか?
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