しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1)

蔵書の自炊作業をしていて気づいたことの、何度目かのまとめです。あんまりまとまっていませんが。

夏目漱石の三部作というのは、「中期三部作」すなわち『三四郎』、『それから』、『』を指します。

三島由紀夫の四部作は、「豊饒の海」シリーズすなわち『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』を指します。

筒井康隆の三部作は、「七瀬シリーズ」すなわち『家族八景』、『七瀬ふたたび』、『エディプスの恋人』です。

以下、それぞれの作品のネタバレを含みます。

 

結論を先に箇条書きで示してしまうと、次のような感じです。

  • 漱石、三島、筒井の三部作/四部作には、最終作に宗教臭が強いという共通点がないか?
  • この共通点は、作者が読者に「これまでの物語は虚構だった」ということを示したいがために生じたのではないか?
  • 漱石、三島、筒井の三部作/四部作には、他にも「一作目の独立性が高い」「二作目がおそらく最高傑作」という共通点がないか?
  • また「第一作、第二作は映像化されているのに第三作(以降)はされていない」というのも共通点ではないか?

 

漱石の「中期三部作」に関しては過去に、私がこれらの作品を読んだのはだいぶ歳行ってからで、「もし若い時にこんなもんを読んで、居ても立ってもいられぬほど感情を揺り動かされたらどうするんだろうな」などと想像した旨を、以前ブログに書いたことがある。

 「居ても立ってもいられぬほど感情を揺り動かされ」ることがあると想像できるのは、私自身にそういう経験があったからに他ならない。ではそれがいつだったかと言うと、いくつかあって、その一つが筒井「七瀬三部作」を読んだ時だった。私の高校時代が、シリーズの発表期間と重なったのだ。なんだか告白するのは気恥ずかしい気もするけど。

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「七瀬三部作」の主人公:火田七瀬はテレパスである。テレパスとは他人の心を読むことができる超能力者のことだ。そして絶世の美少女である(初登場時十八歳)。

連作短編集『家族八景』では、七瀬は住み込みの家政婦として、いくつかの家庭で働く。しかしテレパスという能力が、それぞれの家庭に隠された問題を容赦なく暴き立て、結果としてどこも長居できない。

連作短編集『七瀬ふたたび』では、主人公は家政婦をやめ各地を放浪する。その道すがら、前作では一人も登場しなかった(それらしき人物はいた?)主人公以外の超能力者と、次々に出会う。

本編後半では、超能力者を抹殺しようとする謎の組織が登場し、登場人物たちは次々と組織の凶刃によって斃れてゆく…

個人的には、このくだりに一番ハマった。今にして思えば、「主人公グループを一人ずつ集めて一人ずつ殺す」というのは、『水滸伝』、『真田十勇士』、『七人の侍』などで定式化された物語構造なのだが、高校時代はまだパターン慣れしていなかったのだろうか。

それにしては『七人の侍』に先立って『荒野の七人』は地上波で視聴していたし、マンガだが『ワイルド7』という怪作も読んでいたのだが。『ワイルド7』のどこが “怪作” だったかというと、主人公グループを一旦皆殺しにして、「実はみんな生きていた」というのをやって、それからまた皆殺しにして…というのを何度か繰り返したという…いやこの話も始めると長くなるから別の機会にしよう。

『エディプスの恋人』はシリーズ中唯一の長編である。前作の最後で死んだと思われた主人公・七瀬が、なぜか普通に生きていて、高校の事務員として働いている。そこで不思議な高校生・香川と出会うのであるが、その不思議さのスケールが壮大であり、『ふたたび』に登場するタイムリーパーといい作者の想像力に驚愕したものだ。

 

ただし、筒井の創造性はその後、私の主たる関心事とは異なるベクトルに向かう。すなわちメタ・フィクションというやつだ。登場人物が、自分自身が物語中の存在、虚構の存在であることを認識していたりする。『虚人たち』、『虚航船団』、『驚愕の曠野』、『残像に口紅を』といった一連の作品が、それに該当する。そう言えば「七瀬シリーズ」と同時期に執筆された『富豪刑事』にも、その萌芽が見られた。

だが私は、こうした作品を一応手にとってはみたものの、一向に面白いとは感じられなかった。私の文学、文芸を受容する能力が劣っていることにもよるだろうが、私が筒井に期待したのは、もっぱらストーリーテリング、物語そのものの面白さだったのだ。

 

では私自身の主たる関心事は何だったかというと、「七瀬シリーズ」だけがきっかけではなかったにせよ、自分自身の自己愛との格闘だったのだ。もし七瀬のような超能力者が、自分の心を覗いたら、どんなふうに感じただろう、何を発見しただろう、と自問したのだ。碌なものは見つかるまいと思った。

自問の結果、出てきたのは、下に示す図式で、これは弊ブログにおいても何度となく開陳している。

私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。

  ↓ ↑

私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。

この問題に対して自分の中で一応の決着をつけるのには、それから約20年かかった。その内容は、弊ブログでは「もう一人の自分自身の正体は誰か?」と題した一連のエントリーに書きましたので、物好きな方は見てやってください。ごくごく簡単に言うと、我々の存在は、クオリアとそのメタである短期記憶の統合でできており、我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか、ということです。

watto.hatenablog.com

その過程で、いろいろと寄り道をしたことも、いい経験ではあったと思っている。一例だが、筒井が影響を受けたという精神分析学者のフロイトつながりで、やはり当時のベストセラーであった岸田秀の『ものぐさ精神分析』シリーズを手に取ったことも思い出した。岸田は自身が精神を病んでおり、その苦しみから逃れるために精神分析学者になったという経歴に、大いに興味を抱いたりしたのだ。

『ものぐさ精神分析』中にも自己愛を論じた部分はあった。しかしその分析は、刺激こそ受けたものの、個人的に納得のゆくものではなかった。

のちに大学で本格的に心理学を専攻する友人と話をする機会を得、岸田は完全なイロモノであり、本家のフロイトすら古典的な価値はさておき臨床的にはすでに時代遅れと聞かされて、興ざめを感じたりもした。岸田は、後日けっきょく精神科医による投薬治療を受けることになる。少し後のことになるが、主治医の町沢静夫とともに『自分のこころをどう探るか―自己分析と他者分析』という本を出している。

これに関しては、興味深く感じるのと同時に、がっかりしたような気分にも襲われた。大きなお世話だろうが「自力で決着つけられなかったんかい?」という気持ちと、あと、薬物療法という専門家以外にはアクセスの容易ではない手段が解決に用いられたことに対する疎外感、無力感である。そりゃ歴史に名を遺す人にハンパな人がいるわけがなく、フロイトだって凡人の容易に手の届く相手ではないが、それでもフロイト理論に対しては、徒手空拳で太刀打ちできるんじゃないか、自家薬籠中のものにできるのでないかという幻想を抱く余地があった。あくまで幻想です。

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今回のエントリーは、後半話があらぬ方に行って、いつに増してまとまりのないものになってしまった。当初「私の中の漱石」「私の中の三島」という方向に持って行きたかったのだが、「その2」以降がいつ書けるか、そもそも書けるかどうか、あまり自信が持てない。

家族八景 (新潮文庫)

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