しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その3)

書かなきゃダメなんだと、本当に思う。

私にはたいしたものは書けないが、それでも書き続けなきゃダメなんだと、本当にそう思う。書き続けることによって、書かなくては見つけられなかったものが、見つけられるから。「自分の中にこんなものがあったのか!」と思うようなものが、書くことによって見つかることがある。拙いものかも知れない。他人にとっては、意味のないものかも知れない。しかし自分自身にとって、本当に意味があるのは、そうやって見つけたものなのだ。

その2」に、筒井康隆が、おそらくは書いているうちに発見したであろうメタ・フィクションに対して、私自身は興味を持てなかった旨を書いたが、言うまでもなくそれは筒井自身にとって最大の価値を有したのであろう。

夏目漱石の「近代的 “個人” の発見」に関しては、世間の評価もまた大きいが、その発見が最大の価値を持った相手はやはり、漱石自身に対してであっただろう。

そして、筒井の諸作品の、最大の読者が筒井自身であり、漱石の諸作品の、最大の読者が漱石自身であったという、当たり前すぎるくらい当たり前の事実に思いを巡らすと、その頂のあまりに遥かなことに、めまいのする思いがするのである。

   *       *       *

どうにも気になるのが三島由紀夫である。三島は、いろんな人にとっていろんな意味で気になる相手のようである。気になるあまり、悪口を言う人も多い。

私が一番気に入っている悪口は、過去にも書いたことがあるが、橋本治が『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で開陳した「極上の美しい文体で荘厳された意地悪」というものだ。「三島はエンタメとして読めばいいんだ」と確信させてくれたことには感謝したい。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

 

パターンとして多いのは、「人工臭がする」「作り物っぽい」という批判だ。それは、構成がほぼ完璧で破綻がなかなか見つからないということの裏返しかも知れない。『天人五衰』で、東京大学に入学した主人公の本多透が、自宅から徒歩でも通えるという本郷のキャンパスに愛車のムスタングで通学するシーンを書いたことが、「珍しくミスをしている」と話題になったくらいなのだから(新制の一年生は駒場の教養学部キャンパスに通う)。

「豊饒の海」シリーズに関して言えば、伏線が緻密で、巻が進むに従って登場人物の人間関係が、ジグソーパズルのように、あるべきところにぴったりと嵌まってゆくのが見事だ。物語を書き始める前から全体の構成が完成に近いものになっていて、書き進めるうちに「発見」なんてなかったんじゃないかと疑ってみたくなる。そんなことはないだろうが。

それから、書いているうちに興が乗ってというか、感情が激してきて筆が滑るということも、あまり見られない。11月4日付拙記事 に、『春の雪』で主人公の松枝清顕が父親から打擲を受ける場面を引用した。ダイナミックなシーンに関わらず、それを描写する作者の目は醒めていて、痛みが伝わってこないとさえ言えそうだ。『天人五衰』の後半で本多透が養父の繁邦に暴力を振るうシーンも同様。いっぽう透が繁邦に対して行う数々の意地悪は、リアルでほんとうにいやらしいと感じるんだけどね。

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話は脱線するが、前々回の拙記事 を書く上で必要が生じたので、漱石の『夢十夜』を青空文庫で読み返して、こんなくだりを見つけた。第二夜の、主人公の侍が和尚から「悟れるものなら悟ってみろ。悟れなかったら自刃しろ!」と挑発される話である。

和尚の薬缶頭がありありと見える。鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の香がした。何だ線香のくせに。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html より

「これ筒井康隆の文章でーす」と嘘をついて引用し、あとでばらそうかと思ったけど、さすがにそれはやりすぎというか良心がとがめたので止した。三島がこういう羽目の外し方をしたところは思いつかない、と言いたかっただけだ。

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文字しか情報伝達手段のない小説で、痛みなどの感覚を、どのように読者に伝えるかは、それはそれで永遠のテーマだと思う。遠藤周作『沈黙』で主人公のフェレイラ司祭が最後まで拷問を受けなかった理由は、実はそれだと思っている。感覚を「痛み」に限定しなければ、宮崎市定が絶賛した『三国志演義』中の関羽の戦闘を間接的に描写する場面とか、マンガだけど尾瀬あきら『夏子の酒』のクライマックスで、「龍錦」という銘柄のコメを使った幻の酒の完成品を読者に想像させるテクニックが絶妙だったことを思い出した。いやこれも、とっさに思いついたいくつかの例を並べるだけでは、不自然に感じるくらいだが。

 

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」じゃないけど、私は私の確信したことに基づいて解釈することしかできない。私は若い頃の…

私は自分が優れていると考えてる。だから私は劣っている。

   ↓  ↑

私は自分が劣っていると考えている。だから私は優れている。

 あるいは…

私は自分が狂っていると考えている。だから私は狂っていない。

   ↓  ↑

私は自分が狂っていないと考えている。だから私は狂っている。

 というような自家撞着から逃れたいと、長年にわたりじたばたし、結局… 

  1. “私” は、クオリアと短期記憶の総合体として存在している。
  2. “私” が “私” 自身を認識しようとするとき、それは “私” の短期記憶のみを認識の対象としている。すなわちすでに対象と実体の間にズレが生じている。
  3. “私” が “私” の存在に不安を感じるのは、“私” の “存在のしかた” 自体に起因する「職業病」ならぬ「存在病」とでもいうべき構造的なものである。

 と、短くまとめれば3行で済んでしまうような結論を得るに至って、ようやく自分の中で整理がついたと感じたことは、弊ブログでは何度となく述べている通り。

その過程で、いろいろな気づきがあった。「言語」というものが、そうした我々の “存在のしかた” と極めて相性がいいものであり、それゆえ「言語」が嵌まりやすい陥穽がある、というのもその一つだ。簡単に言えば、「実体」を言語化した途端に、「実体」と「言語」の間には必然的にズレが生じるということだ。「実体」なんてものは存在しない、という突っ込みは想定内である。「実体」が存在しないのであれば、なおさら「実体」と「言語」は別物である。

 

三島は天才である。そりゃ漱石も筒井も天才だけど、努力をすれば漱石や筒井には近づくことができるんじゃないかと幻想を抱ける余地はあるが (ヾノ・∀・`)ナイナイ …これは以前 手塚治虫と横山光輝 を論じたときにもやったな。

三島に人間離れしたところを感じるのは、その圧倒的な多作さと、完成度の高さというか破綻がないことを両立させている点である。両者はしばしばトレードオフである。多作というのであれば、手塚とか、あと弊ブログではしばしば(畏敬を込めてのつもりだが)悪口を言っている司馬遼太郎など、思い浮かぶ人は数々ある。彼らの作品は突っ込みどころの宝庫であることが、才能とは無縁に生まれついた人間の留飲を少しは下げさせてくれるところである。

しかし、ごくまれに、多作と完成度の高さを両立させてしまう者がいるのだ。ぱっと思いついたところでは、三島の師匠筋の川端康成であるとか。川端が掌編小説の名手でもあったことは、高校現国教科書レベルの知識だよね?

 

三島の物語作法については、それはそれで悪口を言いたいことはある。『金閣寺』に対してであるとか。現実の事件に題材をとりながら、大筋のほとんどが想像だというのは三島の作品にはよくあることだ。実際それで google:「宴のあと」裁判 のような事件も起こしている。私が三島という存在を気にしたきっかけは、高校時代に『金閣寺』を読んでのめり込んだことだった。当時は三島文学の本質が「意地悪」であるなど意識しなかったため、ここに何か人生の真実のようなものがあるのではないかのような幻想を持ったが、後日、水上勉の『金閣炎上』を読んだりして、「いいのか、あれ?(三島の『金閣寺』のこと)」などと少なからず立腹したものだ。若い頃の読書体験が、のちの経験によって上書きされていくことは、避くべからざることとは言え。

 

だがそんなことは、三島自身、とっくに承知のことだったであろう。三島は天才であるがゆえに、現実と虚構の関係について、彼自身が深く悩まされていたのではないかと思われる節は、いくつも見て取れる。念押しするが「現実などというものが存在するのか?」ということも含めて。

出世作ともいうべき『仮面の告白』には、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』からの、美に関する丸々一ページを埋めるかなり長いエピグラムがある。そのエピグラムは、次の文言で終わっている。

……しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。

これは「本当のことなんか金輪際しゃべってやるもんか!」という宣言だよね?

一方で、これは本音だな、これは本当のことをしゃべっているな、と感じられる部分もある。

短編集『花ざかりの森・憂国』の自著解説より。

『憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)』P261

これは必ずしも本音じゃないなと感じる。

一方で、

もちろん読者の立場からは、何ら問題性などに斟酌せず、物語のみを娯しめばよいわけであるが、(現に或る銀座のバアのマダムは、『憂国』を全く春本として読み、一晩眠れなかったと告白した)

上掲書 P260 ルビ省略しました

という部分にこそ、著者の生々しい本音を読み取った。三島には、ストーリーテラー、エンターティナーという本質もあるのだ。意地悪な意地悪な三島は、意外にも(でもないか?)他人を楽しませずにはいられない人間でもあったのだ! さきの引用部に出てくる「エロスと大義の融合」というのは、物語作法の定石の一つではないのか? それもさして手練れではない創作者にも使いこなせる類の。してみるとバアのマダムなる人物こそが、本音を言っているのではなくヨイショしている可能性が出てくる。もしそうだとすると、三島はそれが見抜けないのだ。自身の本質にかかわる部分だけに! 

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

さて「エロスと大義」というのをちょっと変えて、「エロスとタナトス」(性愛と死)とすると、漱石と筒井の三部作の第二作も射程に入ってくる。宗教の話もまだしてないですねすみません。宗教には、すぐにイメージされる「死後の救済」「現世利益」だけでなく様々な役割や方便があって、物語の虚構性を示すためにも利用可能だという、短く言ってしまえばそれだけのことだが、漱石、三島、筒井の作品への現れ方の違いについては、ちょっとは論じておきたい。

さらに「エロスとタナトス」と言えば、ぱっと思いついただけでも去年の『君の名は。』、7年前(えっ?)の『魔法少女まどか☆マギカ』、20年前(えっ? えっ?)の『エヴァンゲリオン劇場版』など、繰り返し使われては「居ても立ってもいられなくなった」若者たちを再生産していることであろう。これも口に出してしまった以上は素通りするわけにはいかないよな。少しくらい論じたからって、なんとかなりそうな気は全然しないが。そんなわけで、もうちっとだけ続くんじゃ…は全然入ってないから…帰ったら続きをしましょう…って今回のオチこれかよ?

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