誰もが自分の青年期を送った時代を、特別な時期だと感じるものだろう。だが1970年代に始まり40年も経った今に至るまで完結していない物語のリストを作ってみたら、けっこうな数が集まって、どの時代を同じくらいの厚みに切り取っても、同じくらいのリストができるものだろうかと不思議に感じたことを、前回の拙記事に書いた。
曰く、森村誠一「棟居刑事」シリーズ(『人間の証明』1976年)、『ロッキー』(1977年)『スターウォーズ』(1978年)、『宇宙戦艦ヤマト』劇場版(1977年)、『機動戦士ガンダム』TVシリーズ(1979年)…
それから、さらにいろいろと思いついた。宮崎駿が最初に監督した劇場版アニメである『ルパン三世カリオストロの城』が1979年公開だった。
今年のNHK正月時代劇で三谷幸喜が演出して話題になった『風雲児たち』の、原作マンガ第一巻が出版されたのも1979年。
ミステリでは赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズの第一作『三毛猫ホームズの推理』が1978年。
森村、赤川と並んでBOOK-OFF文庫棚御三家と言われる西村京太郎の(言われてへん言われてへん)、鉄道ミステリシリーズ第一作『寝台特急(ブルートレイン)殺人事件』が1978年と知った時には、さすがにどうかしてるんじゃないかと思ったが、「十津川警部シリーズ」としては1973年の『赤い帆船(クルーザー) 』が最初と知って、ちょっとほっとした。何でだ?
探せばたぶん他にもあると思う。洋画では『エイリアン』が1979年だったが、2007年公開の『AVP2 エイリアンズVS.プレデター』から少し間が開いているから、リストに加えるかどうかは微妙なところだ。最新作の発表から何年以内という線引きをすべきだったかも知れない。「ロッキー」シリーズは、調べたら『クリード チャンプを継ぐ男』が2016年か。スタローンが生きてる限り、また何かやるだろう。
『スーパーマン』劇場版第一作は1978年だが原作コミックとTVシリーズはそれ以前からあるし、『スタートレック』劇場版第一作は1979年だがやはりそれ以前のTVシリーズ『宇宙大作戦』があるけど、どうしよう? ヤマトのTVシリーズ、宮崎の監督映画以外の作品もあるから、加えるべきか。
そうやって考えると、数が集まったのは偶然でもなんでもなくて、自分の思い入れのある年代を輪切りにして恣意的な理屈をつけただけかも知れんねやっぱり。
去年の11月15日付の拙記事 に、栗本薫の「グイン・サーガ」シリーズのことを少し書いた。第一作『豹頭の仮面』は1979年。作者は惜しくも亡くなってしまったが、作家が交代してシリーズは継続中である。
『豹頭の仮面』のあとがきに、こんなことが書いてあった。
本来、物語とは「いつまでも終わりなく語りつづける」ことだけを主張してしかるべきものであり、そしてそれこそが近代小説が物語とその読者から無報酬で奪い去ってしまった正当な純朴さの権利である。もし、これを書きつぐことで少しでも、そうしたものを読者――とぼく自身――に還すことができたら、それこそぼくは一介の物語作者として望みうるかぎりの賛沢をゆるされたことになるだろう。
栗本薫『豹頭の仮面―グイン・サーガ(1)』(ハヤカワ文庫) P281
しかし思うに、上掲作品群で最初から大長編を企画した作品は、この「グイン・サーガ」とせいぜい「スターウォーズ」シリーズくらいで、第一作がヒットして急遽続編が製作され、それ以降、原作者やスタッフがあえて物語を終わらせようという態度をとらず、だらだらと継続しているものが多いように思う。「だらだら」という表現に、若干の批判の意図を込めている。商業的にはそれが正解だったと認めるにしても、というのは前回も書いたな。
「スターウォーズ」シリーズにしても、後から『エピソード4/新たなる希望』とサブタイトルされた第一作の発表当初や、旧三部作の完結時などにおいて、「人気が出なかったらこれで打ち切りだぞ」という雰囲気がどこか感じられた。ジョージ・ルーカスが「全九部作」という構想を発表したのも、タイトルに「“episode”+ローマ数字」が付け加えられたのも、第二作『帝国の逆襲』からだった。また第三作は、第二作で広げた風呂敷を畳むのに忙しかったという印象しかない。どうでもいいけど第三作の旧サブタイトル『ジェダイの復讐』は凡庸だったよね。逆襲されたから復讐したんかい?
いや「スターウォーズ」に関しては、中途ディズニーによる買収を経て、初期構想の九部作が完成目前というのは、素直に賞賛するべきか。スピンオフを除外しても、ここまできて九部で終わることはないだろうけど、といつもの一言多い癖。いや今回は一言どころじゃないけど。
それぞれのシリーズには、熱心なファンがいることだろうから、私程度の知識で何か書くのは、咥えタバコで火薬庫に入っていくようなものかもだが、それでも「終わらない物語」あるいは「終わらせそこなった物語」という観点から、各論的に何か書いてみたい気がする。
特に『宇宙戦艦ヤマト』!
まさか二十一世紀の今日まで、このシリーズの新作が製作され続けるとは思わなかった! 同世代の人間であれば、このトンデモなシリーズに対する愛憎入り混じった感情は察してもらえるんじゃないかと思うが、こういう感情はどの程度世代を伝播するものだろうか? 弊ブログにおいては『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』という本にたびたび言及しているが、よく知らないときに想像したイメージそのまんまだったんですわ。
そんなわけで、今回のブログタイトルには「序論」と入れてみました。続けるかどうかはわかりません。
書くとしたら、栗本の感傷とはうらはらに、物語が終わらないことを作者ら製作サイドと読者・視聴者サイドが共に望むということは、実は稀有なことではないかという、ひねくれたものになると思います。
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