近所の何の変哲もない神社へ、勝手にやっているお百度参りシリーズである。
前回の記事から3週間、間が空いてしまった。先週の日曜日(3月25日)、帰国した直後にコンプリートしておこうかという考えが頭をかすめないことはなかったが、さすがに体力的に無理だった。
先週の日曜日と言えば、毎月最終日曜日に最寄り駅前でやっている「戦争はイヤだ!」集会にも参加しようかなと思ったが、やはり体力的に無理だった、と余計なことを言ういつもの悪癖。
目下お百度をかけているのは、市役所すぐそばの神社である。市役所駐車場の金網越しに拝殿を撮ったら、花びらの残るサクラの枝が拝殿にさしかかるように撮れた。
花びらが残ると表現したのは、お百度参り記事としてはノーカンにしたけど、こりゃひょっとすると週末までもたないかも知れないと思って、先週のウイークデーにコンデジを持って神社の写真を撮りに行ったからだ。
なんか今日は過去記事へのリンクが多いな。いつもこんなもんか?
役行者の祠のところのサクラはほぼ満開だったが…
公民館のところのサクラは、はや葉桜になりかかっているではないか! どうなってるんだ今年は? つか3月29日に出かけておいて正解だった。
3月29日の記事と言えば、うちの近所の神社の拝殿はどこも、内部を覗くと空間が凸型をしており、建物をよく見ると背後の本殿のほうに向かって屋根が突き出していると書いた。
ここは本殿の周りに垣を巡らしているので背後には回れないが、ぎりぎり背を伸ばして垣の上から覗くように撮ってみた。わずかに屋根が見える。失礼なことをしてたらごめんなさい。
ここ八剱社の祭神は日本武尊命で総本社は熱田神宮だが、ぐぐると熱田神宮の祭神は草薙剣を神格化した熱田大神という神様とのことだった。
過去のお百度参り関連記事 で、弥生期の日本に朝鮮半島から多くの渡来人がやって来た目的は製鉄だったという説を紹介したことがある。
世界遺産の宗像神社・沖ノ島について、ちょっとぐぐると10万点ともいわれる祭祀遺物が手つかずで埋蔵されているという驚くべき情報が出てくる。これは沖ノ島が、大陸との貿易(収奪だったかも知れない)の重要な中継基地であったと解釈するのがもっとも自然だろう。
さらに下った室町時代の勘合貿易においても、日本からの主要輸出品に刀剣が含まれていたことは、高校歴史の教科書レベルの知識のはずだ。
実はあれからもう少し調べて、草薙剣、スサノオ、ヤマトタケル、そして記紀編纂の天智、天武両帝について、もう少し語っておきたくなったが、短期留学のゴタゴタで記憶が揮発してしまった。ちょっと時間をかけて仕切り直そう。
先走って少し書いてしまうと、乙巳の変において中大兄皇子のちの天智天皇は主導的な役割を果たしたようなイメージがあるが、少し詳しく調べると、乙巳の変の直後に主権を掌握したのは、皇極天皇の譲りを受けて即位した孝徳天皇、左大臣の阿倍内麻呂、右大臣で蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂といったメンバーであり、若干二十歳とあまりに若かった中大兄は、どうも鉄砲玉にすぎなかったようなのだ。中大兄の主権掌握は、孝徳朝の分裂と自滅を、長い時間をかけて待たなければならなかった。
このあたりの事情は、500年後の平清盛と、ちょっと似ているように感じた。歴史の結果から見ると清盛は全権掌握者だが、事の起こりの保元の乱は皇族と高級貴族の内紛であり清盛を含む武士たちは双方の走狗に過ぎなかった。
そして中大兄の政権は、白村江という一大悲劇を目指して突き進んでいく観がある。
私個人の感想にすぎないかも知れないが、学校で歴史の授業を受けていたころと現在との大きな違いは、昔は日本側の事情しか目に入らなかったが、今は多少なりとも中国(唐)には中国の、朝鮮半島(新羅、百済、高句麗)には朝鮮半島の事情があったことを認識している点のように思っている。
朝鮮半島を統一したのは新羅だから、朝鮮半島側の事情は新羅を主役として語られることが当然多くなるが、これがまた面白いんだよ。
さきに皇極帝の名前がちらりと出たが、飛鳥時代~奈良時代の日本は、八代六人の女帝が相次いで即位し「女帝の世紀」と異称されることがある。いっぽう新羅では、何の偶然か、統一直前に善徳女王、真徳女王という、朝鮮半島史ではきわめて例の少ない女王が相次いで即位している。少し遅れて中国では、まさに空前絶後、中国史上唯一の女帝である則天武后の即位がある。
新羅においては、真徳女王の後を襲った武烈王・金春秋や、韓国で人気の高い王族将軍・金庾信〔キムユシン/きんゆしん〕も語っておきたいが、準備ができるのは、いつになるやら。
イメージの足しにならないか、ってことで、国書刊行会『マンガ ものがたり韓国史〈1〉』というのからスキャンした、真徳女王。
武烈王。
金庾信。
残り20回の参拝、コンプリート。気の早い常夜灯が点灯していた。
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