しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

『火垂るの墓』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『かぐや姫の物語』に描かれた高畑勲の「来迎」

今回は、ちょっと縁起のよろしくない話が出てきますので、ご承知おきください。

 

多くの人に、読者登録していただいたり言及をいただいたりして、感謝しています。しかし、どうしても私の方から言及できるのは、ごく一部の方になります。しかも同じ方ばかりに偏る傾向があります。申し訳なく存じます。

おおた(id:ohtanoblog)さんに言及するのは、確か三度目のはずです。『アナと雪の女王』の感想記事に乗っかって「ハンス王子いい奴説」というのを無理筋主張したときと、『崖の上のポニョ』の感想ツイートに乗っかって「ポニョは最初から人間の女の子説」を展開したとき以来です。

いずれも感性豊かで繊細な おおた さんの感想をブチ壊しているだけじゃないか、あたかも他人が鋭利な小刀で精密な仏像を彫ろうとしているところにやって来て、場違いにも「そうじゃないだろう」と円空仏を刻むようなナタをぶっ込む行為をやっているのに等しくて、当方に円空の爪のアカほどのセンスもあるわけがないから、結果として仏像になるどころか焚き木にしかしていないような気もしますが、どうかご容赦を。

 

先ごろ逝去された高畑勲監督の追悼番組として、先月は『火垂るの墓』が、先週は『かぐや姫の物語』が地上波オンエアされました。

『火垂るの墓』に対して、おおた さんはこんな感想をアップされていました。

www.hamashuhu.com

上掲記事の最後で、清太と節子は、電車に乗ってあの世に行ってないのではないか、彼らは戦時中に戻され無限ループするのではないかというネットロアが紹介されています。

ネットというところは、何にせよ悪い方へ悪い方へと解釈しようとする奴が棲息しており、ややもすると、そういう解釈が生き残る傾向があります。同時上映だった『となりのトトロ』では、ラストシーンで木に登って窓ごしに病室のお母さんを見下ろす サツキ と メイ は幽霊だった、という説がけっこう流布していたりしました。

 

それを言い出したら、ネット世代はるか以前の野坂昭如だって、『骨蛾身峠死人葛』のような、よくまあこんなこと考えるもんだとしか言いようのないとんでもねー作品を書いていたりますが、それは別の話として…

 

野坂昭如の原作は、三ノ宮駅ホームで、清太が垢まみれ、糞尿まみれとなり衰弱死するシーンから始まります。清太のモデルは野坂自身であり、終戦時に妹を死なせたことに対する自罰の感情が強く反映されていることが伺えます。そこに映画版に見られるような幻想的で美しい描写はありません。あれは高畑オリジナルのものです。

 

私の解釈によると、あれは「来迎」なんです。

来迎というのは、浄土教の教義の一つです。念仏者の臨終時には、阿弥陀如来自らが、諸説ありますが「二十五菩薩」と呼ばれる聖衆〔しょうじゅ〕を伴い、極楽浄土へと導くために現前するというものです。

その様は、「浄土三部経」中に記述されています。『観無量寿経』が詳しいのですが長くなるので、『阿弥陀経』より引用します。

原文 

舍利弗 若有善男子善女人 聞說阿彌陀佛 執持名號 若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不亂 其人臨命終時 阿彌陀佛 與諸聖衆 現在其前 是人終時 心不顛倒 即得往生 阿彌陀佛 極樂國土

現代語訳

シャーリプトラよ。もし、善男子・善女人がいて、阿弥陀仏の名号を説くことを聞き、その名号を心にとどめたもち考え、一日二日でも、三日四日でも五日でも六日でも、あるいは七日でも、一心不乱であるならば、その人の命が終わるときに臨んで、阿弥陀仏は、もろもろの聖衆(声聞と菩薩)とともに、その前に現在すであろう。この人の命終わるとき、心は、転倒しない。命が終わってすなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することができるのだ。

仏説阿弥陀経 - Wikisource より

日本の仏教美術には、来迎を描いたいくつもの傑作があります。 

  

フリー素材を探したのですが、適当なものを見つけられなかったので、初版2011年と少し古いムックですが、別冊太陽『法然』の表紙を、一例としてお借りします。

別冊太陽178 法然 (別冊太陽 日本のこころ 178)

これは一部で、オリジナルは浄土宗総本山知恩寺に所蔵されています。

www.chion-in.or.jp

 
高畑勲の監督作品には、この「来迎」が何度か現れます。

 

『平成狸合戦ぽんぽこ』では、四国から招聘された3頭の化け狸のうち、隠神刑部〔いぬがみぎょうぶ〕という狸が絶命するシーンには、まさにこの来迎図が下敷きとして用いられています。刑部は確実に極楽に往生するのですね。うらやましい。

 

『かぐや姫の物語』で、月の民がかぐや姫を迎えに来るシーンも、やはり来迎図を踏まえて描かれていると考えられます。月の民の中で最も高位と思われる人物は、明らかに如来の姿をしていました。

 

 検索したら、ツイッターで キャッスル@castle_gtm さんという方が、『ぽんぽこ』と『かぐや姫』の類似を指摘されていました。FF外から引用失礼します。つか キャッスル さんの、5月18日付の一連のツイートは、どれもすごいです。

 

そうすると『かぐや姫の物語』に関しては、独立に論じたい論点が、次々に立ち上がります。月の民が来迎であるならば、かぐや姫の帰還は「死」と解釈するのが妥当そうに思われます。そうすると、かぐや姫が貴公子たちの求愛を徹底的に拒んだわけや、月からの迎えを予感したわけは、「自らの死期を悟った」と解釈するのがもっとも自然ではないか…などなどですが、そのためには別のエントリーを起こすべきでしょう。

 

『火垂るの墓』に戻ります。原作者の野坂としては、自身の生がある限り、分身である清太の魂を救わなかったでしょう。野坂がサングラスをかけ、酒浸りになり、あふれ出す才能を持て余すようにさまざまなジャンルで、ときに奇行に近いようなものも含め多彩な活躍をしてきたその内面には、あまりに繊細な精神と、誰も癒しえぬ深いトラウマがあったことは、同時代人の多くが知るところと言います。

 

だが他人の高畑であれば、清太の魂を救ってもよかったのです。清太の魂を救うことができたのです。

もちろん電車に如来や聖衆を乗せることはできません。そんなことをしたら物語がぶち壊しになってしまいます。

その代わりに、先に世を去った節子と再会させ、おびただしい蛍の光に取り巻かせたのでしょう。

舍利弗 衆生聞者 應當發願 願生彼國 所以者何 得與如是 諸上善人 倶會一處

シャーリプトラよ。民衆で極楽国土および聖衆のことを聞く者がいるならば、まさに思い立ってかの国に生まれることを願うべきである。それはなぜであるか。このようなもろもろの立派な人とともに、みな浄土という同じ場所であいまみえることができるからである。

仏説阿弥陀経 - Wikisource より

ズバリ高畑は清太の魂を救済しています。ご安心を。

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ただし当然ながらここでも、一筋縄でも二筋縄でもいかない大問題が未解決で残ります。

小説にしろ映画にしろ、フィクションであれば、宗教というフィクションによって決着させることは可能のように思われます。

大問題というのは、そのフィクションのモデルとなった現実を、我々がどう認識したらいいか、ということです。すなわちあの戦争にせよ、あるいは我々自身の生と死にせよ。

「フィクションと現実は別だ」と切断処理するのは容易です。しかしそうすると、フィクションというものが、あまりに無力なものになってしまいます。フィクションをきっかけに現実を考えることも、無意味ということになりかねません。

これは古来、結論の出せない難問です。しかし、触れずにやりすごしてしまうのも、いかにもあんまりだという気がしたので、ずっと考え続けるために、あえて最後に書きとめてみました。

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