市内随所で、こんなポスターをよく見かけた。とくに戦人塚に隣接する公民館の掲示板が目についた。
ただしこれはポスターそのものではなく、あとで出てくる観光案内でもらったチラシをスキャンしたものです。サイズは違えどデザインは一緒だったと思います。
モノクロ印刷だが、新聞に折り込み広告まで入った。それに載っていたスケジュールによると、戦人塚前では供養祭が予定されているようだ。
この市に住むようになって十何年経つのに、このお祭りにはまだ行ったことがなかった。今週末のお百度は供養祭に遠慮して延期し、この「桶狭間古戦場まつり」というのを見に行こうと思った。
スポンサーリンク
折り込み広告によると、主会場は名古屋鉄道中京競馬場駅に近い「史跡 桶狭間古戦場伝説地」というところだった。ま、公園である。拙宅からは名鉄で一駅だが、スクーターで行くことにした。
会場から2kmくらい前の交差点から、道路の両脇に幟〔のぼり〕がズラリと並んでいるのが目を引いた。自治体が力を入れているのだろうか?
中京競馬場駅手前の丁字路突き当りには、こんな看板が出ていた。看板左奥が駅舎である。
駐輪場くらいあるだろうと思ったら、上の丁字路からほんの少し引き返したところにあった。
さらにもう少し引き返すと、こんな看板が出ていた。
「史跡 桶狭間古戦場伝説地」入口の石碑。敷地の北東の隅にあった。マップに物差しを当てて計ったところ、敷地のサイズは約50m×60mだった。
入口付近の案内板。
弊ブログ恒例の文字起こし。
古 戦 場
この地は、永禄三年(一五六〇)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間あるいは舘狭間と呼ばれた。
今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。文化六年(一八〇九)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。
昭和十二年十二月二十一日 国指定史跡
豊明市教育委員会
文中の「七石表」と「桶狭間弔古碑」は、このあと出てきます。
敷地内には幟がいっぱい立っていた。
長方形の敷地を北東→南東→南西…と、反時計回りに回った。
「今川義元戦士所」の幟のそばに立っていたのが「七石表」であった。
少し接写。上の黒地に白文字の案内板は常設で、下の白地に黒文字イラストつきは祭り期間限定のようだった。違うかもだが。
黒地に白文字の案内板のみ、文字起こしした。
七石表(一号碑)
桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。
明和八年(一七七一)、尾張藩氏見弥右衛門桼〔あつし〕、赤林孫七郎信之により建てられた。
北面「今川上総介義元戦死所」
東面「桶峡七石表之一」
南面「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている。
豊明市教育委員会
敷地南西隅の、今川義元の墓。墓前に献花と白い布が掛かった台があるが、チラシによると、2日の午前中に霊前祭というのをやったらしい。
上の写真右側の案内板を接写。
いまがわじぶだゆうよしもと
今 川 治 部 大 輔 義 元 の 墓駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六〇)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。
豊明市教育委員会。
観光ボランティアさんたちの待機所。顔消し失礼します。スキャンを示したチラシは、ここでもらった。
上の写真の左隣、敷地の南東隅に「弔古碑」があった。
案内板を接写。
弔 古 碑
文化六年五月(一八〇九)津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている。
文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉉)、碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。
石工河内屋孫左衛門の手により刻されたものである。
豊明市教育委員会
外国人の観光客に説明する甲冑姿の観光ボランティアさん。女性であった。
いらんことを言うと、観光客より観光ボランティアの方がぜってー多かった。今回のブログタイトルの「幟と観光ボランティアが多かった」というのは、思ったより観光客が少なかったことを婉曲に表現したつもりである。
こんな絵地図もあった。右下にチラリと写っているのは立体地形図である。
なお「桶狭間」という地名は、隣接する名古屋市緑区にもあり、元祖だか本家だかを争っている。上の地図で青丸のある場所付近が緑区の桶狭間で、赤丸のあるところが現在地の桶狭間古戦場伝説地である。
スポンサーリンク
桶狭間古戦場伝説地と通りを隔てた向かいに、高徳院という寺院がある。
逆光で写真がメロメロですみません。
古戦場の案内板に出てきた「おばけ地蔵」と「徳本行者念仏碑」は、この寺の敷地内にある。上の写真のもう少し右手の、土手のような斜面になったところだ。だがこんな調子だったので、今回は写真は撮らなかった。すみません。
寺院は丘の上にある。石段を上って山門をくぐると本堂がある。
上の写真の右手に、「今川義元公本陣跡」という石碑が…
左手に句碑があった。
本堂の接写は遠慮した。位牌が展示されていた。確認しなかったが、たぶん義元の位牌じゃないかと思う。
境内から瑜祇塔〔ゆぎとう〕というのを望む。
名鉄中京競馬場駅の付近では、車窓からこの塔の屋根がよく見える。名鉄本線の乗客で、「なんだあれは?」と思っている人がいるかも知れないので、何枚か撮ってみた。いないかそんな人は。
この瑜祇塔というのは、永代供養塔で、要するに納骨塔のようだ。写真は遠慮したが、塔は小高い丘の頂上付近にあり、丘の斜面、上の写真の右側には、高徳院の墓地が広がっている。
屋根の上に五本も立っている九輪と水煙が特徴的だ。
上の写真の上の方には、モミジの葉が写りこんでいる。紅葉の季節には、さぞかし鮮やかなことだろう。
今の季節は、アジサイがちょうど盛りなのだ。山門の両脇の、土手のようになった敷地には、アジサイが多数植えられており、見頃を迎えていた。
今回の締めに、アジサイの写真を何枚か。
接写。
スポンサーリンク