前編に書いた通り、台風接近のため今年の津島天王祭の行事はすべて中止とのことだった。しかし、まだ天気は崩れていなかったので、祭り会場を見て歩くくらいはいいだろうと散策してみた。
天王祭の主会場は津島神社から歩いて5分ほどの天王川公園というところで、公園の敷地内には、大きな池がある。かつて木曽川の支流だった天王川という川の跡だそうだ。
宵祭では、この池に、竿の先に提灯をいっぱい下げた「まきわら船」という船が浮かぶそうだ。
翌日の朝祭では、まきわら船が一夜のうちに姿を変えた「だんじり船」というのが浮かぶそうだ。山車の船版みたいなものだろう。
津島神社に近い公園の入口。
池のほとりには桟敷が用意されていた。
上の桟敷の右側に、貸ボート店があった。営業しているようには見えなかった。
貸ボート店に背を向けると、公園案内図があった。
上側の「丸池」というかなり大きい池と、下側の細長い池が、細い水路でつながっているという構造である。下側の池の名前はわからない。ただし下側の池の右端の、ふくらんだところには「車河戸〔くるまこうど〕」という名前がついているようだ。下側の池の左端は、先細りになっているらしい。
公園入口左手、丸池のちょうど上の端あたりに、なにやら舞台のようなものがしつらえてあった。
舞台を下から撮ってみた。何に使うためのものだったかは、わからない。
舞台の隣に鳥居があって、その奥に神輿が置いてあった。
公園案内図によると、鳥居のあたりを「お旅所」というらしい。前回拙記事の、大イチョウの案内板に出てきた名称である。
神輿を接写。立派。
無料休憩所でもらったパンフレットによると、28日の行事の一つとして「神輿渡御〔みこしとぎょ〕」というのが午前10時からあったそうだ。宵祭と朝祭を見せるため、神輿を津島神社からお旅所に移動させるというもので、ワッショイワッショイではなく厳粛なものらしい。
池のほとりに戻って、桟敷を何枚か撮ってみた。
どこも仮設とは思えぬくらい立派である。費用もかかっていることだろう。これが中止となったら、関係者にしてみたら泣くに泣けないところではなかろうか。
多数の椅子が並べられていた。してみると桟敷は、貴賓用か、それなりの料金を払った客用なのだろうか?
池に棹差して漕ぎ出している人がいた。
対岸に見えるのが中之島である。
丸池と細長い池がつながっているあたりに、まきわら船を模した灯篭があった。
池と言っても堂々たる河川か運河のようで、灯篭は灯台のようにも見える。
かつての天王川というのは、この部分だけを残して、どうなってしまったのだろう?
池のほとりに、こんな碑があった。
説明書きを接写。
恒例の文字起こし。ただしルビは省略しました。
津島市指定祖先の遺産
濃尾大地震記念碑
明治二四年一〇月二八日、岐阜県揖斐郡根尾村を震源とする断層大地震は、稀にみる強大なもので、この地方にも未曾有の被害をもたらした。
この碑は、明治二五年一〇月この惨害を記録建立したもので、碑表には、海東海西二郡(津島を含む)における罹災の実情を、碑裏には、建碑資金の寄付者名が刻してある。
津島市
もう少し歩を進めると、なにやら船が見えてきた!
案内板があった。
これも文字起こし。
津島湊跡・天王川公園
Old Tsushima Harbor Tennogawa Park
天明年間(1781~89年)まで津島には木曽川の支流の天王川が注いでいて、この辺りに津島湊という川湊があり、津島天王社(現津島神社)の門前町として、また交通の要衝としてにぎわいました。文禄2年(1593)に今の天王川公園の東堤に設けられた船番所は船会所に姿を変えつつ江戸時代末期まで続きました。天王川公園の車河戸〔くるまこうど〕はかつての津島湊の名残を今に伝えています。
≪図≫
『尾張名所図会』巻七より抜粋。
天王川を東から見た図で、右側が北です。
江戸時代後期の津島湊の様子がわかります。
この船に竿灯を艤装すると、まきわら船になるのだろう。
竿灯という言葉を、秋田以外の一般名詞として用いていいかどうかはわからないが。艤装という言葉を使っていいのかはわからないが。でも通じるでしょ?
パンフレットによると、全部で5艘あるそうだ。
車河戸の対岸には道を隔ててガレージみたいな建物があって、祭のスタッフが待機していた。
ということで、艤装前のまきわら船の写真を順不同で漫然と何枚か貼って、今回の締めにしてしまおう。
ところで同日開催予定の「豊浜鯛まつり」の方は、どうなったのだろう?
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