京都つながりで、妙なことを思い出した。
今から40年近く前の1980年代に、学生として京都に7年ほど住んだことがある。
貧乏学生だったので、いろんなバイトをやった。そのうちの一件で、荷下ろしの手伝いに社長の運転する2tトラックの助手席に乗っていたときのことである。
「あんたみたいな、いやらしい兵隊がおってな」社長が突然言い出した。軽口のつもりだったのだろう。
こちらは反応に困って「はぁ…」とくらいしか返せなかったはずである。
「夜な夜な宿営を抜け出して、現地(中国)の女を強姦しにいくのよ」
社長のお父さんに兵歴があって、南京攻略戦にも参加したとのことだった。そのときの経験の伝聞だそうである。
「翌朝、帰ってこれればいいが、帰ってこない奴は悲惨やったらしいで。現地の奴らにしてみたら、恨み骨髄やろうからな」
京都に本部を置いた旧軍第16師団とその下部組織である歩兵第9連隊が、南京攻略戦に派遣されたことは、ウィキペディアにも載っている。
社長と言っても個人事業主で、バイトの私の他には、家族しか従業員はいなかったはずだ。
社長のお父さんには、たまにお目にかかったことがある。当時70代くらいの、おだやかな容貌の方だった。
思えばあの時代は、出征体験者がいくらでもいて、このような加害の記憶は、かりに公然と語られることは少なかったとしても、少し裏に回れば、こんな調子でいくらでも語られていたのではなかっただろうか。
いや、「公然」というのであっても、例えば石川達三『生きている兵隊』(中公文庫)のように大陸における日本軍の蛮行を直接的に描いた文学作品は、いくらでもあった。三島由紀夫や筒井康隆の短編には、南京大虐殺が「オチ」として登場するものがある。ネタバレになるから作品名は書けないので、収録短編集の名のみ記す。三島の作品は『花ざかりの森・憂国―自選短編集』(新潮文庫)に、筒井のそれは『日本以外全部沈没―パニック短篇集』 (角川文庫)に収録されている。
Amazonで調べたところ、書名を挙げた三冊は現在でも新刊が入手できるようだ。
また渥美清主演の松竹映画『拝啓天皇陛下様』や、勝新太郎主演の大映『兵隊やくざ』シリーズには、日本軍の大陸における蛮行が、かなり露骨に描かれていた。『兵隊やくざ』シリーズのうち一作は、地上波放送されていたのを観た記憶がある。今にして思えば、センスの違いに隔世の感を覚えざるを得ない。
南京大虐殺の存在を否定する言説が大手メディアに登場したのは、1970年代くらいからだったと記憶している。アーカイブは笠原十九司『南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書)などにまとめられている。要するに後出しである。文芸春秋社発行の雑誌「諸君!」(現在休刊)を舞台に、イザヤ・ベンダサン(山本七平)や鈴木明らが主張を始めた頃は、「こんなものを真に受ける人がいるのか?」と思ったが、未だに無視できぬ数の支持者がいる現状には、「嘆かわしい」という以外に形容の言葉を持たない。著名人で南京大虐殺否定説に与する名古屋市長の河村たかし氏や作家の百田尚樹氏は、私より上の世代であり、南京攻略戦出征者の体験談を耳にした機会は、私より多いと想像される。つまり彼らは「わかっていてやっている」可能性が高く、もしそうだとしたら、より悪質性が高いと言わざるを得ない。
直近の拙エントリーで「疑似科学」を何度か話題にした。関連書によると、疑似科学の特徴の一つに「(ドグマに固執するため)ほとんど発展しない」というのがあるそうだ。南京大虐殺否定説に関して言えば、当時の安全区人口20万を南京市全体の人口と取り違えた「人口20万の都市でなんで30万人を殺せるのか?」という主張が、十年一日どころか四十年一日のごとく現在に至るも繰り返されていることが、その典型と言えようか。
いっぽう、南京大虐殺に関する新事実は、事件から80年以上を経た今日も次々と発見されている。一例として id:Vergil2010 さんのエントリーへのリンクを貼らせていただきます。言及失礼します。
公的記録が廃棄・隠蔽されている一方で、個人の手元には陣中日記など大量の記録が眠っているであろうということである。
id:Vergil2010 さんの上掲エントリーの後半には、 個人記録の調査をしている 小野賢二 氏が、探し当てた記録所有者の一人から公開を拒否された事例が紹介されている。また事件から80年を経て、体験者のほとんどが故人となっていることへの危機感が読み取れる。
もちろん実体験者がいなくなることは、深刻な事態であることに間違いはない。しかし、歴史というものは実体験者がいなくなることがデフォルトであり、生存者がいなくなったからといって揺らぐようなヤワなものではないという確信もある。
初めの話に戻るが、「自らの体験を誰にも話さない戦争経験者」と「メディアの記者や研究者に体験を話す戦争経験者」の中間に、「家族など近しい人に限って体験を話す戦争経験者」という層があるはずだと考える。ごくおおざっぱな図で表すと、下のようになる。さらにその中間、グラデーションはありうるだろうけど。
私は幕末史家の 一坂太郎 氏の著作を何冊か読んでいる。幕末~明治に活躍した人たちは、当然ながら現代ではみな世を去っている。しかし彼らの生涯の物語が「家伝」として子孫の家庭に残っているケースは少なくないようだ。一坂氏はそうした家伝を、精力的に収集・保存しておられる。
一坂氏の著作の一冊『長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち』P190~「第九章 悲劇の長州奇兵隊」によると、戊辰戦争後、長州藩は、帰還した五千人を上回る諸隊から二千人余りを精選して常備軍とし、残りを解散させる兵制改革を断行しようとした。勝利者たる長州藩といえども、彼らすべてを養う余裕はなかったのだ。
明治二年十二月、それに不満を抱く元奇兵隊兵士らが「脱隊騒動」と呼ばれる反乱を起こした。彼らの反乱は、折からの不作と重い負担にあえぐ農民の一揆も誘発したという。
木戸孝允ら藩首脳部は、そうした反乱や一揆に対し、断固たる武力鎮圧を選択した。投降したり捕えられたりした参加者は、厳罰に処せられたという。
第九章には、著者が収集した反乱参加者たちの物語が、何人分も載っている。そのうち一件だけを引用、紹介する。「義輔帰ったか」と題された、悲痛極まりないエピソードである。
長島義輔の弟の子孫長島晃子さんや原田孝三さん方には、義輔にかんするいくつかの逸話が伝わっています。
義輔は脱隊騒動が起きた際、自宅に帰っていたそうです。ところが戦友たちの誘いを断れず、家族の制止するのを振り切り、反乱に加わった。近所の者が「義輔さんは馬に乗って、村のはずれを走って行った。以来、帰って来なかった」と語ったといいます。
義輔は明治三年三月二日(十八日説あり)、他の二十五人とともに萩郊外、大屋刑場で処刑されることになりました。年齢は不詳ですが、残された戊辰戦争当時の写真から見て、まだ二十代の若さだったと推測します。
≪中略≫
義輔の首級は長島家の隣人市右衛門によって盗み出されました。刑場から掘り出したという話になっていますが、おそらくは梟されたのを持ち帰ったのでしょう。
首級を受け取った母ツヤは泣き崩れます。それをなだめた父和作は、仏壇に息子の首級を供えました。そして、
「義輔帰ったか……」
と語りかけると、首級は鼻血を噴いてこれに答えたと伝えられます。強い、強い無念の思いが生んだ逸話でしょう。
『長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち』 P205~206
史実ある限り、新事実は発掘され続けるはずである。
なお『南京事件論争史』は近く増補版が出るとのことだったので、私は予約ポチりました。