3回に分けてのアップになりそうです。京都市中央図書館に寄贈を済ませ、次の目的地である京都府立図書館へバスで移動したのですが、93系統という丸太町通をまっすぐ西東に走る路線を利用し最寄りのバス停で降りたところ、目の前にある平安神宮に参拝したくなりました。今回はその話だけで終わりそうです。すでに何度か書いた通り、最終的には京都府立図書館と大津市立図書館にも寄贈したのですが。
堀のようだが琵琶湖疏水である。明治期に開削され、水運・用水・発電と多目的に活用された運河だ。東山通にかかる橋の上から東方を見ている。
冷泉通という通りを東に進み、平安神宮を目指す。京都はサクラの名所だらけだが、琵琶湖疏水のサクラというのも Googleマップ に表示されるほどの名所である。
平安神宮の應天門(神門)前に出た。
上の写真の左手あたりに、案内図と説明書きがあった。
弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。今回もルビは省略しています。以下同じ。
平安神宮
平安京奠都の延暦十三年(七九四)より千百年にあたる明治二十八年(一八九五)、桓武天皇を祭神として創建された。紀元二千六百年にあたる昭和十五年(一九四〇)には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合祀された。
社殿は、平安宮の中心施設である朝堂院をおよそ八分の五に縮小して復元されている。二層の神門は應天門、中央正面一層入母屋造の拝殿は大極殿、そこから連なる左右の回廊から東に蒼龍楼、西には白虎楼がある。いずれも平安京のものを厳密に考証して復元された国指定文化財である。なお、昭和四年に建立された大島鳥居及び昭和十五年に増築された社殿群は国の登録有形文化財である。
本殿の背後一帯には、約三万平方メートルからなる神苑が広がる。四つの池を中心に、各時代の庭園形式を取り入れた池泉回遊式の近代を代表する広大な日本庭園で、国の名勝に指定されている。
例祭は四月十五日。平安奠都の日にあたる十月二十二日には、本神宮の例祭として、京都三大祭の一つである時代祭(京都市無形民俗文化財)が行われ、千年にも及ぶ各時代の歴史風俗絵巻が錦秋の都大路にくりひろげられる。
應天門の案内書き木札。
国指定重要文化財
應天門
應天門は、平安京大内裏の正庁朝堂院の南面正門で延暦十四年(七九五)に造営された鴟尾を置く二層碧瓦葺の建物で左右両廊から栖鳳・翔鸞の二楼につながっていた。
この門は、平安遷都千百年にあたる明治二十八年に往時の様式を復元し、平安神宮の「神門」として建造されたものである。
建坪三四、一〇坪(約一一二平方メートル)
棟高六〇、八四尺(一八、四三メートル)
境内。小学校の修学旅行で一度来たことがある。45年くらい前だ。
逆に言えばそれ以来、来ようと思えば来れたのに来なかった。
大極殿(拝殿)向かって左の「右近の橘」。
右近の橘
平安時代以降、紫宸殿の南階下の西方に植えられた橘のことを「右近の橘」といい「左近の桜」と併称される。
儀式のとき、右近衛府の官人がその側に列したことから、名付けられた。
橘は、蜜柑の仲間で唯一の野生種でありその実は、古くから「常世国」の不老長寿の妙薬として珍重された。
さつき待つ 花橘の香をかけは
昔のひとの 袖の香そする
古今集
向かって右の「左近の桜」。
左近の桜
平安時代以降、紫宸殿の南階下の東方に桜が植えられ、儀式のときには左近衛府の官人らが、その側に列したことから「左近の桜」と名付けられた。
桜は、清らかさを大事にする日本人の心を表すものとして、「日本の国花」にもなっている。
敷島の 大和心を人とはば
朝日ににほふ山さくらばな
本居宣長
大極殿の案内書き。
大極殿 国指定重要文化財
大極殿は、古代の役所の建造物のなかで最も重要な建物で、天皇が政務を執られ朝賀・即位など重要な儀式が行われた。
明治二十八年、平安遷都千百年記念事業の一環として平安時代の様式を模して大極殿が建造された。
規模は往時の約二分の一で、屋根は一重、入母屋造で、碧瓦を用いた本葺である。
平安神宮の大極殿は、平安時代の栄華を偲ぶことのできる唯一の文化遺産である。
木札の状態が悪く、建物のサイズを示す最後の三行が、どうにも読み取れなかった。
参拝を済ませたあと、ふと大極殿の左手にある神苑の入園チケット売り場が気になった。修学旅行では入らなかった。つか今の今まで神苑というものの存在を知らなかった。
神苑の案内図。こんなデカい池あったっけ? 時計とちょっと相談して、せっかく来たのだからと入ってみることにした。
神苑に入ってすぐのところにあった八重紅枝垂桜というのと案内書き。
八重紅枝垂桜
この桜は、平安神宮が創建された明治二十八年、仙台市長遠藤庸治により寄贈されたものである。そのもとは、近衛家に伝来した「糸桜」を津軽藩主が持ち帰り育て、それが再び京都に帰ったことから「里帰り桜」ともいわれている。
文豪谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場し京都の春を象徴する桜として、神苑の数ある桜の中でも特に人気がある。
振り向きざまに撮った平安神宮神苑の門標。
案内図は神苑内にもあった。
案内図の写真からは文字が小さくて読み取れないが、神苑は大きく「南神苑」、「西神苑」、「中神苑」、「東神苑」の四つに分けることができ、この順番で経路になっているということだった。反時計回りである。
南神苑の案内書き木札。
南神苑(平安の苑)
この神苑は、明治二十八年平安神宮創建以来八重紅枝垂桜の名所として親しまれてきた。
昭和四十四年孝明天皇百年祭の記念事業として、平安時代の特色である野筋(道筋)と遣水が設けられた。また、昭和五十六年には往時の代表的文学書(竹取物語・伊勢物語・古今和歌集・枕草子・源氏物語)に登場する草木、約一八〇種類を植栽して、王朝文化をしのばせる庭「平安の苑」とした。
植物ごとに、こんなふうに説明書きが掲げてあった。
あるわあるわ。
キリがないので、さすがに文字起こしはギブアップした。
こんなものもあった!
案内書き。
手書きのようだが OCR がまあまあ認識してくれたので。
日本最古の電車
この電車は、明治二十八年一月三十一日に日本最初の交通輸送業電車として、京都電気鉄道が運行したものである。
当初は伏見線・木屋町線・鴨東線(平安神宮の在る岡崎附近にも敷設されていた)を開通次いで明治三十三年には北野線、三十七年には西洞院線を増設・運行し我国電気鉄道の先駆として交通事業に貢献するところが多かった。しかし、明治四十五年六月京都市が市営にて電気軌道の営業を開始し、大正七年六月には京都市に合併された。その後、昭和二年四月までの間に、木屋町線・出町線・烏丸丸太町線等の路線が随時廃止され、主要路線は広軌に取り替えられたのだが北野線のみ、同じ狭軌のままで残されていた。
しかし、時勢の推移は如何ともすることが出来ず、最後のこの線も、昭和三十六年七月を以って廃止され、永年チンチン電車の愛称で親しまれた我国最古の電車も、その姿を消すこととなった。
ここに展示している電車は、当初のものであり、平安神宮創建とも深い関係があることから京都市より払い下げを受け、記念として保存している。
車体は梅鉢鉄工所の製作、電動機はアメリカゼネラルエレクトリック社の製品である。
昭和三十一年頃、神戸製鉄株式会社によって修理が施された。
もうちょっと歩くと、王朝文学に登場する植物の説明書きが、こんな調子で大量に出現した。さすがに文字起こしはパスせざるを得なかった次第。
小径と水路がもつれ合うようになっている。これまでの説明書きに出てきた「池泉回遊式」とか「平安時代の特色である野筋(道筋)と遣水」とかいうのにあたるのだろうか?
「順路」。どっちに行けばいいんだ? けっきょく合流するけど。
木花の向こうに社殿が見える。
「澄心亭」。
池に出た。水路の流量はかなりあることが伺われる。
西神苑というところに侵入したらしい。
西神苑
平安神宮が創建された明治二十八年に中神苑とともに造られた。
白虎池を中心とした庭は、池の西側に出島、北側には神苑唯一の滝があり西南の築山には茶席「澄心亭」がある。
初夏を彩る湖畔の花菖蒲は、特に有名である。(約二百種類・約二千株植栽)
これが出島かな? 滝のほうは探さなかった。
池にせり出したサクラ。
林道のような小径。あとで案内図を見たら、本殿の背面を通って西神苑から中神苑へと抜ける通路だったらしい。
中神苑に抜けたところ。
臥龍橋
龍が臥する姿を象り「臥龍橋」と名付けられた。
神苑作庭者 第七代目小川治兵衛が手掛けたものである。 使用された石材(白川石)は天正十七年に豊臣秀吉が造営した三条・五条両大橋の橋脚である。
すぐに東神苑へ続く。見えている建物は、左奥が泰平閣(橋殿)、右手前が尚美館(貴賓館)らしい。
案内書き。
東神苑
東神苑は、明治末期から大正初期にかけて造られた。京都御所から移築された泰平閣(橋殿)並び尚美館(貴賓館)があり、広大な栖鳳池には、鶴島・亀島の二島を配し、その周囲には八重紅枝垂桜をはじめ、さつき・つばきなど多様な花木が植栽され、水面に写る花々は格別の風情を醸す。
また、東山を借景とした神苑は、明治時代を代表する名庭である。
これが鶴島と亀島かな? どっちがどっちかわからないので、間違えたら大変だ!
大変なわけないやろ。なんなら泰平閣と尚美館を取り違えても、観光客には関係ない(それはそれで言いすぎ
泰平閣の橋上から栖鳳池を眺めた。鳳は栖んでいなかったが、シラサギがいた。「鯉の餌」のカンバンの、耳偏の真上あたり。
泰平閣を渡り切ってから見た全景。
「尚美館(貴賓館)」。
出口。
出口を出てから振り返って見たところ。
これより先は入れません。
ここは神苑出口です。入口は向かい側です。
四ヵ国語で書いてあった。
神苑出口のすぐそばにあった「期間限定 桜記念品」&「桜みくじ」売場。何も買わなかったけど。
写真と文字起こしテキストを見境なく貼っていたら4,000字を越えてしまったので、献本は別記事とし「この項つづく」とさせていただきます。次回で完結です。
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