しいたげられたしいたけ

道を間違えているのが明白なのに、「きっと他の道はもっと間違っている」と進み続けたら、どうなる?

和歌山城址を無計画観光(前編:新大阪駅から和歌山城本丸御殿址まで)

前回の拙記事に書いた通り、名古屋~和歌山は「のぞみ」と「くろしお」の接続がよければ2時間とちょっとで行けるようだ。しかし1時間に1本という「くろしお」の便数の多さに過剰期待していい加減に出かけたところ、新大阪駅で45分ほどの待ち時間ができてしまった。

だが新大阪駅構内は、45分やそこらの待ち時間など退屈させてくれる場所ではなかった。これも結果オーライというやつかも知れない。

 

まずホームに出たら、反対側ホームに停まっていたのがコレ。「のぞみ」を下りた乗客が一斉にスマホ写真を撮っていた。

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あとで検索したら “ハローキティ新幹線” というプロジェクトだそうで、こういうラッピングの「こだま」が新大阪~福岡間を一日一往復しているそうだ。公式HPによると、内装も凝っているとのこと。

 

コンコースに下りたら、こんな看板があった。よそごとながら薄いテツ属性持ちとして、祝・新線開通と述べておきたい。

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なお「薄い」というのは笑うところではない。ときどき突っ込まれるので念のため。

 

それにしても新大阪駅はすごい! これが改札を通った構内の、ごく一部である。ショッピングセンターではない!

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飲食店にしても、ラーメン店、サンドウィッチ店はおろか、回転寿司、ステーキハウスと、何でもありである。

昼食にはちょっと早い時間だったけど、「だし茶漬け えん」という店があったので入ってみた。

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初めての店だったので、メニューの一番安い「刻み菜漬けのぶぶ」というのを頼んでみた。680円(税込み)。

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これがめちゃうま! (゚Д゚;

まず、ごはんの味がしっかりしている。ちゃんとした炊き方をしているんだろうなという感じ。だし汁は味控えめだが、オクラ、枝豆からゴマに至るまで具材の味それぞれきっちり自己主張して、なおかつ調和している。小鉢の豆腐の味までが違うのだ! きちんと大豆の風味のする豆腐って、なぜか最近食べてなかった!

さすが「食い倒れ」の街と言うべきか。

 

ホームに降りたら反対側の2番ホームに「おおさか東線」の電車が停まっていた。

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3番ホームに到着する「くろしお」。顔消し失礼します。

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 「くろしお」の進行方向左側車窓からは、京セラドーム大阪、通天閣、ヤンマースタジアム長居など、いろんなものがけっこう間近に見えた。

 

JR和歌山駅ホーム。右側は出てゆく「くろしお」。

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「くろしお」に限らず今どきのJR在来線特急は、頭が尖っていておしりが四角い。連結して増両するときには、このおしり同士をくっつける。おしりあい、なんちて。

 

JR和歌山駅前ロータリー。

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JR和歌山駅から和歌山県立図書館までのバスの便は、県立図書館公式HP「アクセス(交通案内)」に “県庁前経由和歌浦方面行き「高松」下車徒歩3分” と明記されていたから迷わなかった。ありがたい!

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書籍寄贈を済ませたのち、往路と同じバス路線で引き返し、確か「県庁前」というバス停で下車した。

和歌山城址へは、そこが最寄りだったはず。

 

歩道橋の上から撮った和歌山城本丸。

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これが歩道橋だけど、なんとなく「城はこの上から撮ってくれ」と言われてるような気がした。

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上の写真の歩道橋の、左側に見切れている階段を下りたあたりに、徳川吉宗の銅像があった。

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台座の銘板によると、右下の丸いのは「大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ ≪中略≫ 広い世界すなわち地球を表現」しているとの由。

なお銅像の向こうは、和歌山県立近代美術館と和歌山県立博物館だそうだ。

 

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城址にはどこから入ったらいいのかわからなくて少し歩き回ったが省略。

無料配布していた「史跡 和歌山城 道案内マップ」の絵地図がわかりやすかったので、スキャンした一部を貼らせていただく。

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左下の方に「徳川吉宗公像」という小さい文字が見える。

けっきょく右下の方の「関口門」というところまで歩いて入城した。丸数字の(3)というのが見えているあたりだ。

 

これがその関口門。

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上の写真で黒い服の男性が見ている先に、説明書きがあった。

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弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。改行位置変更しています。ルビ省略しています。外国語が併記されている場合は和文のみです。以下同じ。

  史跡 和歌山城
    指定 昭和六年三月
 天正十三年(一五八五)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建した平山城が和歌山城です。「和歌山」という地名は、この頃の秀吉の手紙に初めて登場します。城造りの名人として有名な藤堂高虎らが普請奉行を勤めました。和歌山城は、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえるでしょう。和歌山は別名虎伏城・竹垣城とも呼ばれます。
 豊臣秀長は大和郡山を居城としたため、但馬武田城主だった桑山重晴が、秀吉の命で秀長の家老となり、城代を勤めました。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となります。この豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組みました。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの後、浅野行長が三十七万六千石の領主となり、城の大規模な増築を行ないます。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸、西の丸に屋敷を造営。城の正面である大手門を岡口門から一之橋の門に変え、本町通を大手筋として城下町を整備しました。
 元和五年(一六一九)徳川家康の十男・頼宜が五十五万五千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立します。同七年、幕府より銀二千貫を賜り、二の丸大奥部分を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。
 紀州徳川家は「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出しました。黒板張だった天守閣は、寛政十年(一七九八)十代藩主治宝の命で、白壁塗りの白亜の天守閣となります。しかし、落雷により弘化三年(一八四六)天守閣は焼失、幕府から「有形の通り」との条件付きで許しを得て、嘉永三年(一八五〇)に再建されました。
 明治四年(一八七一)の廃藩置県により陸軍省の管轄となりました。明治三十四年和歌山公園として一般に公開され、同四十五年に和歌山市に払い下げられます。昭和六年(一九三一)に国の史跡に指定され、同十年には天守閣が国宝となりますが、同二十年七月九日の和歌山大空襲で焼失、戦後市民からの要望もあり、昭和三十三年に鉄筋コンクリートで復元されました。
 空襲で焼け残った江戸初期の遺構である岡口門と土塀は昭和三十二年(一九五七)重要文化財に、西之丸庭園は同六十年に国の名勝に指定されました。

 

関口門をくぐって内側から撮ったところ。

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上の写真の左側あたりにあった説明書き。

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和歌山城史跡解説
「重要文化財 岡口門」
 和歌山城は天正13(1585)年に秀吉の命で弟の羽柴秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は南東部の岡口門を正門である大手門としました。広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていたのです。和歌山城の東側の地域は、中世では雑賀庄の岡と呼ばれていたので、この名がつきました。慶長5(1600)年、浅野幸長が城主となります。浅野時代に大手を一の橋の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。元和5(1619)年徳川頼宣が入国する際、浅野家が提出した引き継ぎ目録に、門の一階部分に「畳三帖有」とあり、今の形と違います。元和7年に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。
 徳川時代、城の内郭へ入る門でニ階建ての櫓門形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。門の二階部分は北側に蔵が、南側には二階建ての櫓が続いていましたが、現在取り払われ、切妻のような形になっています。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀とともに昭和32(1957)年に重要文化財に指定されました。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が開けられています。

 

本丸に上る「表坂」。

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このスロープは歩行困難な方を忍者がサポートして天守閣前広場までお連れするためのものです。
ご利用希望の方はご連絡ください。

忍者は帰途に何人か見かけた。写真は撮らなかった。今にして思えば、断って撮らせてもらってもよかったかも。

 

坂の上から見下ろした動物園。

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上の写真から少し先の、坂の途中にあった「七福の庭」。

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和歌山城史跡解説
「七福の庭」
 七福の庭とは、七個の巨石を七福神に見立てて配置した庭です。一般に七福神とは、富をもたらす「大黒天」、漁業・商業等の守護神である「恵比須」、護法神の「毘沙門天」、音楽・蓄財等の神である「弁財天」、寿命を掌る「福禄寿」、長寿を授ける「寿老人」、福をはこぶ「布袋」の七柱の福徳の神様のこと。縁起の良い神として民間でも信仰されてきました。
 この庭では、七福神が宝船に乗っている様子を表しており、船の先端と後方にある石は舳先と船尾(艫)を表現しているのでしょう。海のかなたから福徳がもたらされるという海上他界観から、宝船に乗った七福神の図柄は江戸時代に流行しました。石材は庭石としても珍重される緑色片岩(紀州青石)です。七福の庭は本来、虎伏山の東の峰にあった本丸御殿の中庭にありましたが、大正12(1923)年給水場が同地に計画されたため、松の丸のこの場所へ移設されました。
 七福の庭は紀州徳川家初代頼宣の時代に造った庭で、加藤清正好みと伝えられます。肥後藩主加藤清正は城造りの名人として有名で、頼宣の正室である八十姫(瑤林院)の父ですが、頼宣が紀州に入国した時点で清正はすでに死去しており、また庭造りについては造詣が深いとも言えず疑問が残ります。七福の庭の成立については今後も検討する必要があるでしょう。

 

天守閣が見えてきた。

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和歌山城史跡解説
「天守郭と天守閣」
 天正3(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのが、虎伏山の山頂部分です。秀長は家老の桑山重晴を城代として置き、ここに天守を建てました。天守閣の一段下の北西にあった蔵が、その時の天守だとの説があります。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に城主となった浅野幸長は、高さ約49mある西方のこの峰を「本丸」とし、黒板張ですが、ほぼ現在の形に近い天守閣を建てました。
 元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、「天守郭」と呼ぶようになります。天守閣は大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。三階建ての大天守は不定形な地盤に制約され、一階の東側と西側が二棟を結合した珍しい比翼入母屋造となっています。
 寛政10(1798)年に黒板張から白壁となりますが、弘化3 (1846)年の落雷で焼失しました。天守再建は通常は許可されませんでしたが、御三家ということで認められ嘉永3(1850)年にほぼ元のまま再建されます。ただし、楠門へ入る階段の位置が異なるなど、一部違いがありました。天守閣は昭和10(1935)年に国宝に指定されますが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。しかし昭和33年、市民の努力で復元されたのです。

 

入城は「わかやま歴史館」と共通券で大人410円だった。

もぎりの人がいたのは、さきの解説板でいう「天守二之御門(楠門)」かな?

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門を入ったところにあった階段を上り、大天守を見上げつつ入った門を見下ろす。

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「乾櫓」かな? 左手前の木には「紀州南高梅」という看板が立てられている。

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「大天守」への入口は、左端の木に隠れている「小天守」にあった。

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入口前で二人連れが見ていたあたりにある説明書き。

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天守閣
和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多門、乾櫓、多門によって連結させた連立式天守である。
各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され
乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は昭和二十年七月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和三十三年に鉄筋コンクリート造で復元したものである。
  再建年月日 昭和三十三年十月一日
  天守台面積 二、六四〇平方メートル
  大天守閣高 二三、四二メートル
    (海抜七二、三二メートル)

 

内部の展示物の撮影は遠慮しました。

大天守閣最上階から西方を撮ったところ。

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櫓が多門で連結された連立式天守の様子がわかるような気がした。

遠方に紀ノ川の河口が見える。

 

興が乗ったので時計回りに四方を撮ってみた。北方。屋根は小天守。

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東方。

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南方。大きな屋根は県立近代美術館と県立博物館。十分な時間があれば入っておけばよかった。

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天守郭址と双峰をなすという本丸御殿址に上ってみた。

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和歌山城史跡解説
「本丸御殿跡」
 和歌山城のある虎伏山はラクダの背のように東西に峰があります。天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長が先ず築城したのは、この山頂部分でした。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修築を行ないます。山頂部分では、西の高い峰に現在の形に近い黒板張りの天守閣を新たに築いて本丸とし、東の低い峰に御殿を建てて二の丸としました。東のこの部分は東西29間(約57m)、南北27間(約53m)で、不等辺五角形の形をしています。
 元和5 (1619)年に徳川頼宣が入国すると、山頂全体が本丸となり、東の峰は本丸御殿と呼ばれます。しかし、地形的に不便で手狭なため、ときたま謁見の場として利用するぐらいで、ほとんど空屋敷となりました。ただし、正月行事である三日の謡初は、本丸御殿で開いています。また、幕末に短期間でしたが、参勤交代が中止となり江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると、本丸御殿を一時使用しています。
 明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。本丸御殿の中庭は七福の庭と呼ばれ、七福神を表現した石組がありましたが、給水場が設置されることになり、大正12(1923)年に工事が始まると、現在地の松の丸へ移されました。

 

下城時には「裏坂」というのを通った。

絵地図には乗っていないが、坂の石段の一番下あたりにあった「銀明水」という井戸。

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  銀明水
この井戸は「銀明水」といわれ天守台地北方丘腹の「金明水」と共に日常用水ならびに籠城時の非常用水であった。城内にはこの外四十余ヶ所あります。

長くなったので前後編に分けます。「後編:和歌山城二の丸庭園から和歌山市駅」に続きます。

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