しいたげられたしいたけ

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和歌山城址を無計画観光(後編:和歌山城二の丸庭園から和歌山市駅)

和歌山城址内で無料配布していた「史跡 和歌山城 道案内マップ」の絵地図を再掲。

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絵地図のほぼ中央に見える「裏坂」というところ経由で天守閣から下り、二の丸庭園に出ようとしたところから続ける。絵地図では右上寄りで、丸数字の(2)が見える。

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弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。改行位置変更しています。ルビ省略しています。外国語が併記されている場合は和文のみです。以下同じ。

和歌山城史跡解説
「二の丸・大奥」
 大名御殿は、以前は表と奥向に二分されていましたが、江戸城本丸が表・中奥・大奥に三区分されると、この二の丸にも大奥が設置されます。ただし、和歌山城で「大奥」という名称が使われるのは寛政4(1792)年からで、それまで「御内証」と呼ばれていました。
 大奥と中奥との間は塀や御錠口で厳重に区画されていました。大奥はその機能によって、御殿向・長局向・広間向に分かれます。御殿向は北側の色の濃い部分(藩主の居所)を中心とした範囲で、殿様の居間や寝所など。西側にある縦長の長屋、(二階建)が長局局向で、奥女中たちの生活空間。出入り口は、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)まで開く七ツ口で、買物もここでしました。南の御錠口より東側の広敷向は、大奥の所務を取り扱う広敷役人の役所です。ここは男性が入れました。

 

庭園内に侵入する。こんな台石にはめ込まれた説明板を、何箇所かで見かけた。

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左半分。

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  発掘調査により発見された江戸時代の遺構

多門櫓の礎石列
 江戸時代,御橋廊下が架かる石垣上には,南北に5棟の多門櫓(長屋造の建物)が建てられていました。このうち,御橋廊下の架かる北側で,発掘調査により多門櫓の礎石列が発見されました。その大きさは6間×2間(約12m×4m)で,絵図に描かれた建物と,ほぼ同じ大きさであることがわかりました。多門櫓は,城を守るための重要な施設ですが,平和な時は道具類を入れる物置や蔵として使われたといわれています。平成18年度の整備工事で,発見された礎石列を復元しました。

土塀基礎石組
 江戸時代,御橋廊下の架かる北側と南側に土塀がありました。発掘調査により土塀の基礎石とみられる石組が発見されました。また,付近から土塀の瓦と考えられる軒平瓦も発見されました。土塀は,江戸時代に作成された御橋廊下の設計図面である「御橋廊下御差図」などにも描かれています。これらの資料にもとづいて平成18年度の整備工事で土塀を復元しました。

穴蔵状遺構
 御橋廊下の架かる石垣に組み込まれた形で造られた穴蔵状の遺構が発見されました。穴蔵状遺構の入口部分には,敷居に板状の石材が用いられ,その内側両端には扉に関係するホゾ穴のある礎石がありました。この礎石と敷居石との位置関係から扉は内開きであったと考えられます。また,床面は入口から約2/3の広さで瓦製の塼が四半敷(ひし形に目地のある敷き方)されていました。奥側約1/3は盛土され,土壇状となって,なにか特定の物を収納していた可能性が考えられます。江戸城でも大奥付近に石室と呼ばれる施設があり,非常の際,大奥用の調度などが納められたところと考えられています。
 なお,穴蔵状遺構は,明暦元年(1655)の火災以降,入口が閉ざされ埋め立てが行われています。御橋廊下の架かっていた時期には利用されていなかったと思われます。

 

右半分。

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二之丸(大奥部分)
 二之丸は,紀州藩の政治を執り行なう場であり,藩主の生活の場でもありました。そこには,多くの御殿がありました。御殿はその使われ方で表・中奥・大奥に分かれていました。表は藩主が謁見や儀式を行なうとともに,藩の政庁として諸役人が政務を執る場所でした。中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所でした。大奥は側室や奥女中が生活する場所で,藩主のみしか入れませんでした。
 この説明板の建っている付近一帯は,大奥のあった場所にあたります。文政8年(1825)に描かれた「和歌山ニノ丸大奥当時御有姿之図」(左の絵図)では,局(奥女中の住居)や庭,大奥を囲む多門や櫓などが描かれています。また西之丸へ渡るための御橋廊下の入口も描かれています。

 

庭園内に設けられた散策路に沿って左方にクランクすると、「穴蔵状遺構」というのと「御橋廊下」の入口が見えた。

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穴蔵状遺構。

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穴蔵状遺構
 発掘調査により、石垣に組み込まれた形で穴蔵状の遺構が発見されました。床面は、入口から約2/3の広さで瓦製の塼が四半敷(ひし形に目地のある敷き方)され、奥側約1/3は盛土され、土壇状となっていました。なにか特定の物を収納する施設であったと考えられます。江戸城でも大奥付近に石室と呼ばれる施設があり、非常の際、大奥用の調度などが納められたところと考えられています。なお、穴蔵状遺構は。明暦元年(1655)の火災以降、入口が閉ざされ埋め立てが行われています.御橋廊下の架かっていた時期には利用されていなかったと思われます。

化石のある和泉砂岩
 この砂岩は、穴蔵状遺構付近の石垣に使われていました。よく見ると、少し濃い色の模様があることがわかります。これはコダイアマモ(植物)と呼ばれる化石で、約7000万年前と考えられています。和泉砂岩は、和泉層群の岩石で形成され、地質時代は中生代白亜紀の末とみられています。この付近の石垣には、和泉砂岩が使用され、友ヶ島(和歌山市)から採石されています。今も友ヶ島には石を切りだした採石場が残され、コダイアマモの化石も発見されています。このことは、和泉砂岩の石垣が友ヶ島などから、もち込まれたことをものがたっています。

 

御橋廊下。土足禁止だったので、靴は手に持って渡った。

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渡り切ってから振り返って見た御橋廊下。

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渡ったところにあった説明板。

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左半分。

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史跡和歌山城 復元・御橋廊下(おはしろうか)

■御橋廊下御差図「二之丸御橋廊下桁行弐拾歩一建地割図」
 御橋廊下の北側立面を描いた図面です。図面左隅には御橋廊下の仕様が記されています。これらの仕様と図は一致し、御橋廊下が二之丸から西之丸へ架かる斜めの廊下橋であること、また板壁で覆われ、屋根があることなど構造及び外観の詳細がわかる図面です。

■発掘調査により出土した御橋廊下の礎石
 平成11年(1999)12月から平成12年(2000)3月にかけて、御橋廊下が建っていた場所や石垣の取り付き部分の発掘調査が行われ、堀底から礎石や瓦などが出土しました。
 礎石は、60cm~80cm×40cm~70cmの長方形の割石で、ほぼ中央に脚柱を受けるホゾ穴(直径30~35cm)がありました。また、直径1.4mの円形状に板材を縦に打ち込み、その中に礎石を据えている箇所もあり、御橋廊下の存在が確認されました。
 御橋廊下は、藩主とお付きの人だけが二之丸と西之丸を行き来するために架けられていた橋で、屋根を設け、外から見えないように部屋の廊下のような作りになっていました。斜めに架かる廊下橋としては、全国的にもめずらしい構造です。
 和歌山市では、和歌山城整備計画の一つとして、平成11年(1999)から御橋廊下復元工事のため史料調査や発掘調査を行い、堀底から礎石や瓦などが出土しました。これらの成果にもとづいて、御橋廊下が復元されました。
長さ 約26.7m
幅 約2.95m
勾配 約11%
完成年月 平成18年(2006)年3月

■発掘調査により出土した御橋廊下の瓦の一部
≪略≫

屋根のついた橋は 平安神宮神苑福井城址 にもあったけど、言われてみれば斜めではなかった。

あと土足禁止でもなかったぞ、といらんこと言い。

 

右半分。

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西之丸(にしのまる)
 この説明板の建っている一帯は、江戸時代、西之丸と呼ばれていた所です。西之丸は、紀州藩初代藩主徳川頼宣(1602~1671)の隠居所として築造
されました。
 江戸時代に描かれた「和歌山西丸図」は、西之丸に建ってていた建物や庭(現在の名勝・紅葉渓庭園)などをくわしく描いています。これによると、御座之間(御上段・御次・御三之間)や御数寄屋、そして松の樹の横には能舞台などの施設があり、また、内堀の一部を利用した庭園には、地形の起伏を巧みに利用して懸造り構造の聴松閣や水月軒と名づけられた茶室が建っていたことがわかります。さらに、堀につき出た鳶魚閣や西之丸と二之丸を行き来するための御橋廊下が堀上に架けられていたことがわかります。
 このように、西之丸は藩主の隠居所とし築造されましたか、能や茶道などの数寄を楽しみ、また自然風雅を楽しむ所でもありました。

 

左手に、堀へ下りる坂があった。見下ろすと、堀というより池のようになっていた。絵地図によると、これが紅葉渓庭園らしい。

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上の写真に見える石橋のあたりまで下りると、左手に堂のような建物があった。貰ったパンフレット「名勝 西之丸庭園」の写真と見比べると、これが鳶魚閣〔えんぎょかく〕のようだ。立ち入り禁止だった。

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右手。池の中央の立札には「御舟石」と書いてあった。

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石橋の上から、鳶魚閣と御橋廊下が一緒に写るように撮ってみた。

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石橋を渡ったところにあった「茅門」という門。西之丸庭園の出口である。振り返って撮った。

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立札を接写。OCRにかかりそうになかったので、文字起こしは見送りました。

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茅門の向こうの左手奥にあった案内板。ああ、門を出る前は右手か。これも文字起こしはしませんでした。

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絵地図に見える「砂の丸広場」の手前の「鶴の渓」という文字のあたり、紫陽花が満開だった!

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絵地図左上の「わかやま歴史館」

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2Fが有料の歴史展示室。和歌山城共通入場券で入れた。

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10分ほどのビデオが上映されていた。十代城主徳川治宝〔とくがわはるとみ〕を主人公とし、寛政年間の天守閣再建を主題としたCG動画だった。

和歌山県出身の有名人として、陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子のブースが設けられていた。

内部の写真はありません。

 

1Fは観光案内所と土産物売場だった。むろんこちらは入場料いらない。

土産物売場には、ミカンや紀州梅の加工品のみならず、様々な商品が置かれていた。

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絵地図にはなぜか載っていないが、歴史館に隣接して吹上口というのがあり、そのあたりから城外に出た。

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和歌山城史跡解説
「吹上口」
 吹上口は和歌山城内郭の北西部入口です。吹上口は紀ノ川河口の紀伊湊に近く、西外堀でつなかっていました。また、西外堀には吹上橋が架かっており、人間だけでなく、荷物を運ぶ牛馬も通行しています。物資の搬入口というのが、この場所の主な特徴です。
 橋の南詰にあったのが高麗門形式の吹上御門です。門を入ると変則的な桝形虎口になっていました。吹上口の南側にあったのが勘定奉行所に続く勘定御門、東側にあったのが三の丸との出入り口である吹上大御門(天保11年に「吹上冠木御門」から改称)です。また、橋の東には、船に物資を積み降ろすための雁木(石段)がありました。しかし、明治以降に改変が加えられ、城内で最も原形を留めていない部分です。
 最初の城主である豊臣秀長家や次の桑山家の時には、和歌山城の普請が吹上口にまで及んだ形跡は確認できません。吹上口が整備されたのは、慶長5(1600)年に入国した浅野家の時期と思われます。ただし、それは勘定御門の通路の東側までで、それより西は紀州徳川家初代頼宣が城主となり、砂の丸を新たに設けたのにともない増築されたのしょう。勘定御門の道を境に、東側の石垣が「野面積み」の浅野期初期の築造であるのに対し、西側は徳川期の「打込みハギ」や「切込みハギ」の布目積み石垣です。

 

吹上口のあたりの堀には、いくつか噴水があった。曝気による水質改善のためじゃないかな。よもや「噴き上げ」とダジャレているわけではなかろう。

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和歌山城址から市民図書館へは、徒歩で向かうしかなかった。エンジンと車輪のついた道具が恋しかったが、でかいのも小さいのも利用できそうな奴が通りかからなかったので仕方がない。

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市民図書館に隣接して和歌山市立博物館というのがあった。

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ここも時間さえあれば入ってみたかったが、閉館5:00p.m.とのことで、市民図書館に着いたときにはすでに閉まっていた。ちなみに市民図書館は土日6:00p.m.閉館と少し遅くまでやっている。

だいたい都道府県庁所在地クラスの都市になると、どこでも1日で見て回り切れないほど見どころがあるものだ。

 

和歌山市民図書館から和歌山市駅までは、よっぽど近かった。

JR和歌山市駅ビルが工事中だった。

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南海和歌山市駅はこの工事現場の奥(写真左手)にあったのだが、どうやって行けばいいのかちょっと戸惑った。ちゃんと通路があったけど。

 

加太行きの、奇妙なラッピング電車が停まっていた。「めでたいでんしゃ」だってさ。

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和歌山市周辺はテツ属性持ちから見ても、JR、私鉄大手、中小私鉄の路線が入り乱れて、興味の尽きないところである。お金と時間さえあれば、しらみつぶしに乗りテツするためだけに、しばらく滞在したいくらいだ。

ちょうど BEのぶ(id:casemaestro89)さんが、JR和歌山市駅とJR和歌山駅の中間に位置する紀和駅に関する、きわめて興味深いエントリーを公開されていたので、リンクを貼らせていただきたく。BEのぶ さんの書かれるエントリーはどれも興味深いのだけど。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

私は今回、往路はJR和歌山駅着の「くろしお」、帰路は南海和歌山市駅発の特急「サザン」を利用したので、残念ながら紀和駅は通過もしなかった。

その「サザン」。

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先頭車両に陣取った。

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和泉山脈を貫通したり、古墳があったり(「淡輪」という駅のそば)、高架化工事が進行中であったり、やはり興味の尽きない車窓の眺めであった。

高架と言えば、JR関西空港線は南海本線の高架の上を高々架で横切っていたのか。JRと私鉄が交差するときは、JRが必ず地べたか低いところを走り、私鉄が上か下に譲るのだが、例外もあったのだ!

 

その南海空港線特急「ラピート」。難波駅で撮った。乗らなかったけど、見たら撮りたくなるデザインである。

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