またしても不要不急の外出をしてしまった。
昨日のエントリーに、よその軒先や道路沿いのツツジの写真を貼った。
それで、ツツジが満開の時期を迎えているのであれば「ツツジの名所」と言われるところは今どんなふうになっているのだろう、という疑問が浮かんだ。
「ツツジの名所」を検索したところ、大府市の「大倉公園つつじまつり」というのがヒットした。残念ながら中止とのことだったが。
大府市は隣町じゃないか!
隣町が好きだな。4月28日付拙記事 でネタにした知立市はうちから見て南東、大府市は南西である。某200万都市は北西である。なおあとで地図を確認したところ、知立市とうちの市は市境を接していなかったので、隣とは言えないかも知れない。ま、いいか。
いらんこと言いついでに言ってしまうと、昨日 pato さんのこの記事がホッテントリ入りしていた。
大変な力作である。いっぺんに1741市町村全部を読むことはできないが、ご縁のある県から、ちびちびと読んでいる。
だが大府市などいくつかの自治体が「日本一調査中」となっていた(4月30日閲覧時)。なんかなかったっけ?
去年の8月に おおぶ文化交流の杜図書館に献本に行った とき、「貸し出し図書数 全国一位」という横断幕が出ていたことを思い出した。
検索すると公式HPが見つかった。
しかし「google:図書館 貸し出し 日本一」で検索すると、いろんなところがヒットする。大府市のHPをよく読むと "同規模自治体(人口6~10万人)の中で" という但し書きがあった。それでもたいしたものである。ウエイト別チャンピオンみたいなもので。ちょっと違うか。
ときに今(5月1日)pato さんの記事をチェックしたところ、私の情報提供が反映されていた! ブックマークコメントに投入したのを目に留めていただいたようだ。大変な光栄です!
大府市
・図書館の貸し出し冊数日本一:おおぶ文化交流の杜図書館(同規模自治体中)
なかなか大倉公園の話ができないじゃないか!
「つつじまつり」は中止になっても、花が咲いていないわけじゃなかろうと思って、見に行った。
隣町のこと、エンジンと車輪のついた道具を使えば決して遠くはないが、駐輪するのに適当な場所が見当たらなくて、ちょっと困った。隣接する大府市歴史民俗資料館の駐輪場を使わせてもらった。怒られるかな? ちなみに歴史民俗資料館は、緊急事態宣言発動により休館中とのことだった。
これは歴史民俗資料館のほうの庭園のようだ。
庭園の横をすり抜けると、なにやら立派な門構えが。
上の写真の左のほうに写っている公園案内板。
写真には写っていないが、もうすこし左のほうに、茅葺門の説明書きがあった。
弊ブログ勝手に恒例、文字起こし。改行位置変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。
大倉公園茅葺門
大倉公園の茅葺門は、大倉和親氏により大正時代に「大倉別荘」として建設されたもので、大倉公園の施設の一部として、昭和五十四年に県道横根大府線沿いの位置から移設され、平成二十七年には大府市で初となる国の登録有形文化財に登録されております。
平成三年度には屋根材の一部をふき替え、平成二十一、二十六年には友好都市提携を結んでいる岩手県遠野市の職業法人遠野職業訓練協会の協力を得て屋根材のふき替えを行いました。
今回平成二十一年以来の全面ふき替えを岩手県遠野市の一般社団法人遠野かやぶき保存協会の職人の協力を得て実施し、令和元年度に新たな姿に生まれ変わりました。
茅葺門の左方にある入口から、敷地内に入った。案内板絵地図に「ツツジ」という文字のあるあたりである。
接写すると、盛りは少し過ぎていたようだ。
だが白い木花が鮮やかだった。何という名前だろう?
追記:
ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)かな?
追記おわり
公園ほぼ中央部の広場にあった説明書き。案内板絵地図の「あずまや」という文字のあるあたり。
大倉和親と大府
大倉和親は、明治三十七年(一九〇四)日本陶器合名会社(現・株式会社ノリタケカンパニーリミテド)設立時に初代社長に就任し、その後、陶磁器から派生する様々な業種の会社を設立し、「日本窯業の父」と呼ばれました。
大府との関わりは、父親である孫兵衛が明治末期に陶管工場用地としてガンジ山を購入したことに由来しています。ただ陶管土場は建設されず、和親によって隣接する農園(現・大府中学校周辺)同様に桃を中心とする大震農園ができました。
大正から昭和初期にかけて、ガンジ山一帯には3万本とも言われる桃の木が植えられ、春の開花時期になると丘陵一面をおおうピンクの桃花・美しさに多くの花見客が訪れ、「大府の桃山」と呼ばれるようになりました。
大倉父子が、高級陶磁器生産を主とする「大倉陶園」を設立した大正期、和親は農園の一画に別荘を構えました。また、当時国有鉄道(現・ジェイアール東海)だった「名古屋駅」が笹島から現在の場所に移転する時には農園の一部から名古屋駅の盛土として土が運ばれていきました。
桃の生産に陰りが見えてき昭和九年(一九三四)、和親は、農園を区画整理し、「高級園芸住宅地」として、分譲を開始しました。分譲するにあたり、頂上の公園に給水塔を設置して、大府で最初の自然流下による簡易水道を整備しました。また、道路脇には桜や紅葉の苗木が植樹され、現代の賑わいへとつながっています。
昭和五十年(一九七五)に大府市が公園用地として取得し、現在「大倉公園」として整備され、市内外の人の憇いの場所となっています。
平成二十七年(二〇一五)には、大倉公園内にある休憩棟と茅葺紋が、国の登録有形文化財に登録されました。
上の説明書きの向かいあたりに、金属板のはめ込まれた石標があった。
登録有形文化財
大倉公園休憩棟
(旧大倉和親別荘離れ)
この建造物は貴重な国民的財産です
大府市
旧大倉和親別荘離れに向かう小径の門。
旧大倉和親別荘離れ。
上の写真の右下に写っている説明書き。
旧大倉和親 別荘離れ(現・大倉公園休憩棟)
大倉公園は、大正八年(一九一九)日本陶器株式会社(現・ノリタケカンパニーリミテド)初代社長の大倉和親氏により建てられた「大倉別荘」が元となっています。中でもこの建物は、客人をもてなす離れとして使われたものです。
木造平屋建で、入母屋造りの屋根は当時瓦葺きでした。南北に広く開けた庭に面して四つの和室が配され、広縁でつなげられています。
昭和二年(一九二七)には、皇室の賀陽宮恒憲王が宿泊されました。
平成二十六年二月
大府市教育委員会
さらに園内を散策した。
竹林養生中
タケノコ等を
採らないでください
大府市役所
公園緑花課
タケノコでかっ! 食えるのか?(食えない食えない
ひょうたん池。
カッパの夫婦(?)の像と、なんだろう、この釣り竿みたいなものは??
小高い里山のようなところを公園として整備したようで、決して広くはなかったが、地元に住んでいる人が散策するにはよさそうなところだと思った。
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まっすぐ帰ってもよかったが、帰途上に「大府みどり公園」というのがあって、ここはうちの市との市境ぎりぎり、すなわち拙宅からかなり近いにも関わらず、なぜか足を踏み入れたことがなかった。
せっかくの機会だからと、ここにも立ち寄ってみた。
上の写真の右手あたりにあった案内板。
この公園には、太古の昔からタイムスリップして、石像の友達と共に現れたストーンドラゴンと、遠い未来から子供の竜と共に光り輝くメカドラゴンが現れ、仲良く一緒にくらしています。
さらに右には、こんな看板が。
救援部隊活動拠点
この広場は
大災害発生時に救援部隊が使用する予定です
ご協力をお願いします
愛知県・大府市
石標のほうに戻り、石段を上る。
石段脇の花壇。パンジーが鮮やかに咲いていた。
石段を上ったところにあった「じゃぶじゃぶ池」。日本の夏の名物「水ガキ」が、早くも仕込み中であった。
じゃぶじゃぶ池の手前から右方に進むと、おお、これがメカドラゴンか?
口から中に入れるようになっているらしい。
胴体が遊具になっている。長いぞ!
ソーシャルディスタンスを訴える横断幕がかかっていた。
ソーシャルディスタンスを順守する人々。
航空機は空席が目立った。
そしてこいつがストーンドラゴンか!
上の写真右下隅の石板。影が写ってしまった。
ストーンドラゴンの首を後ろから撮ったところ。
園内を時計回りに散策していると、こんな標識もあった。
このモアイの首みたいなものは、さすがに後世のつくりものだと思うが、丘の斜面は確かに古窯を思わせる傾斜だった。
地域猫もいるらしいが、お目にはかかれなかった。
道路を隔てて、駐車場と「市民の森」というのがあった。
ここはハナミズキが鮮やかだった。市民が家族の「誕生」「入学」「卒業」などを記念して植樹しているようだった。木の根元に銘板があったが、個人名が書かれていたので撮影は遠慮した。
そういえばハナミズキを接写する機会って、あまりなかったな。街路樹などとして植えられていることが多いからだろうか?
これは、さらに帰宅する直前に見かけた、よその民家の生垣として植えられていたツツジ。まさに満開だった。
こういうのを見ると、隣町とはいえわざわざどっかに行くまでなかったかなと、台無しなことを考えてしまった。
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