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森三樹三郎『梁の武帝―仏教王朝の悲劇』(法蔵館文庫)

久しぶりのマイ書評。老眼の進行とともに読書量が極端に落ちている。

もう十年以上前になるが、急性仏教かぶれを発症して仏教関係書をいろいろ読んだことがある。

仏教の篤信者として知られた中国南朝梁の皇帝・武帝についても知りたくなって関係書を検索したが、ヒットした一冊の森三樹三郎『梁の武帝―仏教王朝の悲劇』は版元品切れで確かAmazonマーケットプレイスではとんでもなく高値が付けられていたのだった。

その時は代わりにつか吉川忠夫『侯景の乱始末記──南朝貴族社会の命運』(中公新書)というのを読んだのだった。これはこれで好著でたいへん面白く読ませていただいた。

www.watto.nagoya

 

なおこちらも中公新書版は版元品切れで、志学社からの復刊が新刊で手に入るようだ。

面白いなんて書いたがそれは国と時代を隔てた安全地帯にいるから言えることで、リアルタイムを生きた人々のストレスはそれはもう想像を絶するものだっただろうな…と歴史書を読むたびに思うこと。

 

話を戻して、『梁の武帝』が法蔵館文庫から復刊されているのに何かのきっかけで気づいた。法蔵館というのは仏教書を多く出している出版社で、そこが文庫本の刊行も始めていたとは知らなかった。

こりゃ読むっきゃない! ということでアマポチした。

 

なんで梁の武帝に興味を持ったかというと、とにかく仏教がらみの伝説が多いからだ。仏教好き以外にはあまり知られていないかもだけど。

例えば禅宗の祖とされる達磨大師がインドからやってきて、最初に武帝のもとを訪れたが意見が合わず袂を分かったとする伝説。

これは面白いから吉野裕子『ダルマの民俗学: 陰陽五行から解く』(岩波新書) から『伝法正宗記』の会話を孫引きしちゃえ。

武帝「自分は即位以来、多くの寺を建て、写経をさせ、数多の僧を得度させるなど、その数は数えきれない。こうしたことは、どれほどの功徳になろうか」
達磨「そんなことは功徳といえるものではない」
武帝「いかなる理由で功徳なしとするのか」
達磨「そんなものはすべてこの現世における些細な貢献で、所詮、煩悩の因に過ぎず。いわば影が形に添うようなもの、たとえあるとしても実質はともなわない」
武帝「それでは大乗功徳とは、いかなるものか」
達磨「それは浄智妙明、その実体は自ら空寂、俗世に求めて得られるべきものではない」
武帝「それではその悟りの第一義とは何か」
達磨「廓然として自由無碍であること」
武帝「自分に匹敵する者は誰か」
達磨「知らぬ」

吉野裕子『ダルマの民俗学―陰陽五行から解く』(岩波新書) P79~80

 

残念ながら『梁の武帝』では、私の読み落としがなければ達磨大師に関する記述はたったの3行。

達磨大師が最初に江南に至って武帝と面談しながら、共に語るに足らずとして北方に去って行ったという伝説なども、武帝に対する不信用から生れたものであろう。

森三樹三郎『梁の武帝―仏教王朝の悲劇』(法蔵館文庫)P140~141

 

親鸞『正信偈』には…

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼

(私訳:曇鸞は我が師。梁の天子・武帝は常に曇鸞のおわすところに向かって菩薩と拝まれた)

というくだりがある。

私の読み落としがなければagain、曇鸞に関する記述はゼロだった。

 

巻を開いて書いてあることが思ったことと違ったのは毎度である。では何が書いてあったかと言うと、例えば先の引用部の「武帝に対する不信用」というのは武帝の3度とも4度とも言われる「捨身」すなわち帝位を捨て寺院の奴隷となって奉仕する行為について、それが衷心から出たものかあるいは梁滅亡後を後継した陳王朝の歴代君主がやはり「捨身」を行ったという正史の記述を引いて形式的なものであったかを論考する文脈で出てきたものである。

 

そゆえばそもそも梁の武帝がどんな人物か知らない人への説明が要るよね。

前王朝である南朝斉の君主が年少かつ暴虐だったのでこれを除いて自ら即位し、50年にわたる中国南北朝期としては例外的に長期間の安定した政治を行ったが、晩年北朝側から侯景という将軍が投降したのを一旦は受け入れたが誅滅しようとしたところ窮鼠猫を噛む的な反撃にあい、首都を包囲されて餓死した皇帝である…って何という雑な説明だ!?

除かれた斉の事実上最後の君主 google:東昏侯 一人とっても、ちょっとエピソードを調べるだけでもぶっ飛びまくっていて不謹慎ながら面白いことこの上ないんだけど。

『梁の武帝』は全七章のうち武帝の即位までの前半生に「三 武帝の生立ち」の一章を、武帝の最期と梁王朝の滅亡に「七 梁の滅亡―侯景の乱」の一章を充てている。

 

では他の章はつか本書でもっともページが割かれている対象は何かというと、著者は「中国思想史」あるいは著者自らの言葉によれば「中国精神史」専攻とのことで、仏教のみならず儒教や道教にも通じた武帝の思想遍歴を辿るのに多くの記述が費やされていた。

また武帝のみならず同時代の知識人群像に関する記述も多かった。武帝の文化的先達とも言うべき前王朝・斉の武帝第2皇子である竟陵王 wikipedia:蕭子良(初出P33)であるとか、蕭子良主催のサロンの同窓(いわゆる「八友」)でのちに武帝の宰相になる wikipedia:沈約、wikipedia:范雲 らの記述も多い(初出p34、詳細P68~)。

こうした名前、いずれも知らんかった。例えば現代日本の文化人で千五百年後に名前が残っているとしたら村上春樹一人いるだろうかという気がするから、そんなものかも知れない。

 

こうしたなじみのない人名が多いのに加えて、残念ながら私には文章が難しいのだ。中国史ファンを自称するためには、正史くらいは白文で読めなきゃダメだってのかな?

一例だがおそらく読書が早いという意味で「読書七行ともに下る」という表現がP49とそれからもう一箇所くらいに出てきたはずだが、たぶん原典にそう書かれていたのだろう。

たまたま突き止められたのがP59の google:絶服二世。中国南朝では滅亡した前王朝の皇族はたいてい皆殺しにされるのが常だが梁の武帝は慈悲深かったという文脈で、斉の武帝のおいにあたる蕭子恪は梁の武帝により高官に取り立てられたが子恪は梁武にとっても「絶服二世の疎属にあたる」(P59)という記述がある。

ヒットした中国語簡字体辞書の例文は、当の『梁書』の「蕭子恪伝」かいっ! 機械翻訳に頼って読んだところによると、古来親族(の冠婚葬祭?)に対しては「五服」と呼ばれる礼服を着用する必要があり、絶服というのは礼服を着用するに及ばないほどの疎遠な関係という意味のようだ。

www.kmw.com

 

これでも実はまだ肝心なことを一行も書いてない。当時の知識人の常識として儒仏道があり(道教を意味する玄学、儒学に史学と文学を加えた「玄儒史文」という表現も出てくる。P86~)、とりわけ社会指向で人為的な秩序を重視する儒教と個人志向で無為を重視する道教は、本質的に相矛盾するものだという興味深い指摘が行われている(P105~)。

だが私は儒教に関しては『論語』『孟子』などを拾い読みしたことがあり知識皆無ではないはずだが、うかつなことに道教に関しては勉強を怠っていた!

今からでもちょっとでも勉強しなきゃ…

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