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нет войне! NO WAR! 戦争反対!

鈴鹿大学提訴の原告支援のため津地裁へ行く道すがらの津城跡公園散策

加入している地域労組が全面支援している労働事案の提訴が、8月30日にあった。

www3.nhk.or.jp

かいつまんで言うと鈴鹿大学を運営する学校法人亨栄学園が、労働契約法18条のいわゆる5年ルールに基づいて無期雇用に転換した非常勤講師7名に対して、2021年からの担当コマ数をゼロにしたというとんでもない案件で、何度か交渉を重ねたがらちが明かず2名がついに提訴に踏み切ったというものだ。

労働契約法18条には、無期転換後の契約条件は但し書きあるも原則として現に締結している条件を踏襲しなければならない旨明記されている。但し書きの解釈をめぐる確定判決はまだないはずだが、少なくともコマ数ゼロ=実質解雇というのはいくらなんでもメチャクチャで、もし万が一にもこれが通れば同条による非正規労働者の救済は空文と化してしまう。つまり絶対に負けられない裁判なのだ。

 

この事案に関しては、弊ブログでは微力ながら原告支援の立場から何度かエントリーをアップする予定だが、いきなり準備はできない。今回は最寄駅である近鉄津新町から津地方裁判所への経路上にあった津城跡公園を通り抜けたスマホ写真集という、前置きのものものしさとは打って変わったときどきやる単なる散策エントリーである。

 

だって街角に突然こんな光景が現れたら、時間に余裕さえあれば誰だってこの中を通り抜けたくなりません? 初めての場所だったので、いかないい加減な私でも少し早めに自宅を出発したのだ。

マップで見ると、城跡公園の南西側の入口だった。

 

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石垣の正面に、こんな看板が現れた。

 

左の色白の方は「みんなの公園を大切にしましょう」という注意書き、右側のちょっとくすんで見える方は津城跡の説明書きだった。

弊ブログ勝手に恒例文字起こし。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。

三重県指定史
    所有者 津市
    安土桃山時代 乎成17年3月25日指定
  津城跡
 津城は、織田信長の弟の信包によって築城された。天正8年(1580)に五層の天守閣が完成し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい、荒廃した。
 慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸・北側を広げて石垣を高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。そして、城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた伊勢街道を城下町に引き入れ、町の発展に努めた。
 また、城下町の東の端に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の外側の守りとした。また、堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線とした。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止し、万一の場合と火災に備えた。

(1)【本丸】
 ã€€çŸ³åž£ãŒåˆ‡ã‚ŒãŸã¨ã“ろには埋門と呼ばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があつて,多門櫓と呼ばれる渡り廊下のようなものでつながれていた。
(2)【西之丸】
 現在は日本庭園になっているが,昔は番所や倉庫があった。南西には玉櫓と外郭から入ると鍵の手に曲がった所に2階の櫓門があった。本丸との境には西の鉄門があり、土橋でつながっていた。
(3)【東之丸】
 現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さなお宮さんがあったといわれている
(4)【内 堀】
 本丸、西之丸、東之丸を取り囲んでいたが、順次埋め立てられて現在は本丸と西之丸の周りに残っているのみである。
(5)【二之丸】
 内堀と外堀に囲まれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12の小さな櫓が築かれ、北(京口御門)・西(伊賀口御門)・南(中島口御門)に門が設けられていた。
 文政3年には、藩校有造館(現在のNTT西日本三重支店付近)がおかれた。日本庭園の中に有造館の入徳門(市指定史跡)が移築されている。
(6)【外 堀】
 城の内と外を区切る堀で、岩田川から水を取り入れていたため潮の干満で水面が上下した。現在はすべて埋められている。

    津市教育委員会

こんなことやってる場合かなと思わないでもないが、習慣というやつである。それに看板の文字とOCRの相性さえよければ、それほど手間はかからない。

 

「日本庭園▶」の矢印の方向にすすむとすぐに、こんな門があった。上の説明書きに出てくる「入徳門」とのことだった。

入徳門
 文政三年(一八二〇)、第十代藩主藤堂高兌は藩士やその子弟を教育するための藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門が、この門である。
 入徳門の名前は、「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉からきているといわれ、徳に入るの門として作法は厳格であった。
 明治四年(一八七一)、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女学校兼附属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。昭和二十年(一九四五)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和四十二年(一九六七)の同館移築により、この門のみ残された。この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和四十六年(一九七一)現在地に建てられたが老朽化がはげしくなり、昭和六十一年(一九八六)より昭和六十二年(一九八七)にかけて保存修理工事(解体復原)を実施したものである。
  昭和四十三年一月二十日指定
    津市教育委員会

色調を反転させたらOCRがあっさり読んでくれた。

 

これが日本庭園かな?

 

木立ちの切れ目から堀と石垣が見えた。

 

あずまや。奥の看板には「美しい町づくりの運動」などと書いてあった。

 

季節の木花サルスベリ。

 

「日本庭園」という銘板発見。

日本庭園
中央公園施設工事
昭和45年3月完成
面積 0.3ha
施工者 株式会社岩田組

 

こういう看板があるということは、日本庭園を反対側から抜けたらしい。

 

丸い広場があった。マップによると本丸跡とのことだった。

 

振り向くと「藤堂高虎公」なる銅像があった。

説明書きの看板もあったが、木立ちに半ば埋もれていたので接写しなかった。

 

こんな石碑もあった。

 高山公遺訓
 可為士者常之覺悟
寝屋を出るより
其日を死番と可得心
かやうに覺悟極るゆへに
物に動する事なし
是可為本意
  昭和五十五年十月五日
 藤堂高虎公三百五十年祭記念
津市長岡村初博書

OCRさえ使えれば文字起こしは手間じゃないと言いながら、さっきから手打ちじゃなきゃ文字起こしできない文章を文字起こししているな。

 

公園の敷地を抜けるあたりに立派な櫓があったが、木立ちがじゃまをして内部からは全体像が撮れなかった。

  丑寅櫓
 津城本丸の東北隅に位置する櫓である。平面規模五間四方の層塔型三重三階で、同形同大の戍亥櫓とともに城内最大の櫓であったと考えられる。壁面には長押形を飾り、城内側にも窓を開くなど他城では天守に相当する高い格式を備えていた。

丑寅というのは北東だから、北東の入口ということだろう。

城跡公園に進入したのは南西入口からだったから、戍亥櫓というのはそのあたりにあったと想像されるが、それらしきものは見当たらなかったから現存しないのだろう。

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ミスです。戌亥は北西でした。だから今回の訪問では見ていませんが、ネットで検索すると戌亥櫓はやはり現存しないが基礎の石垣が残っているとのことでした。

追記おわり


櫓のたもとの説明書き。「それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。」が「当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。」となっているなど、さきの南西の入口にあった説明書きと微妙に言い回しの違う箇所があるが、内容はだいたい一緒だったので接写は貼らない。

 

こんな説明書きもあった。

  東鉄門桝形
 津城本丸の東側に位置する虎口で、外門の東黒門、内門の東鉄門からなる桝形であった。両門の間で通路は右に折れ、周囲には多門櫓を巡らせた厳重な構造であった。東黒門は上部を透かしとした門扉をもつ高麗門であり、東鉄門は鉄板張の門扉をもつ櫓門であった。それぞれの門内に番所を設けて通行人を監視していた。

 

ようやく櫓を見上げられるようになった。

 

北東側の入口を抜けたところから眺めた丑寅櫓。集合予定時間が迫っていたので石碑の文字を接写している余裕はなかった。

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というわけで津地裁。プレハブの仮庁舎のようだった。

NHKの動画で原告団が入っていっている入口。道路に面した側がスロープで、反対側の階段から撮っている。

 

プレハブ仮庁舎のできるだけ全体像を。

 

全部がプレハブというわけではなく、上の写真の西隣には、こんな立派な庁舎も建っていた。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220830/20220830133245.jpg

 

上掲写真の津法務総合庁舎のさらに西隣に、三重弁護士会館があった。記者会見はこの中で行われた。記者会見は弁護士会から記者クラブに依頼すると開けるのか。知らなかった!

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