昨日(12/9)付のエントリー に、スクーターを処分してしまったので自宅から離れた神社にお参りどうしよう、みたいなことを書いた。
昨日は昨日で外出のついでにお参りしたのだけど、今日もちょっとしたことだが外出の都合があった。書いちゃうと銀行に行きたかった。
そっちの方向にも別の神社があったのだった。遠いといっても市内であり徒歩で十分行ける。何かのついでがあるときにお参りをしてしまえばいいのだという、我ながらあまりにも当たり前の結論に達した。
振り返って何を悩むことがあったのかと思ったら、過去記事を読み返したら欲張っていっぺんに何か所かお参りしたことを記事にしていたことが多かった。エンジンと車輪のついた機械があればこそできたことで、それを手放したのだから事情が変わるのも、これまた当たり前のことであった。
今回は、昨日のエントリーに貼らなかった「スガキヤ」のラーメンの写真から始めよう。参拝の帰りにショッピングセンターのフードコートで食した。だが別の写真をオチに使ってしまったので貼らなかった。
定期的に外食写真エントリーを上げているが、前回からそろそろ1ヶ月。とは言え今月は新規開拓とかやらなかったから独立したエントリーにしづらく感じたので、このエントリーにまとめてしまおうと思った。なじみの場所であっても、お参りと外食って相性いいよね(誰に訊く?
とは言え、同じ方向だからちょっとだけ遠回りして、神社じゃないけど戦人塚というところにもお参りに行こうと考えてしまった。ついでを増やすとそのたびおっくう感が増える事実も否定しがたいが、いい年して未だに自分で自分の気分とつき合うのが面倒くさい奴である。
しばらく前に「国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚」という説明板ができていた。
戦人塚自体は何度かネタにしているが、この説明板はまだ文字起こししたことなかったので、明度反転してOCRに掛けてみた。
上段。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。
戦人塚は、永禄三(一五六〇)年の桶狭間の戦いとの関連から、桶狭間古戦場伝説地と共に国の指定史跡にされている。
今川軍の戦死者二五〇〇余人を曹源寺二世快翁龍喜和尚が供養した塚といわれ、また一説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚であるとも伝えられている。
塚の上には高さ一・〇五メートルの石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄三年庚申五月十九日」、西面に「南無阿弥陀佛」と記されている。元文四(一七三九)年、この塚で一八〇回忌の供養が営まれた際に建碑されたといわれている。
昭和一二年一二月二一日 指定
豊明市教育委員会
下段。
桶狭間古戦場伝説地
永禄三(一五六〇)年五月一九日の桶狭間の戦いにおいて織田信長が今川義元に対して勝利をおさめた主戦場の一部とされる場所である。
桶狭間古戦場伝説地は今川義元が戦死したところと伝えられる地点に相当し、戦い後に義元と家臣たちの塚が築かれ、江戸時代中期の明和八(一七七一)年には七つの塚の上にそれぞれ石碑「七石表」が建立された。この様子を記した最も古い記録については江戸時代初期の旅の記録である『関東下向道記』に義元塚の記述がみられ、他多くの資料にも現在の古戦場伝説地の様子が記されている。このように戦いの中心地(今川義元が討ちとられた場所)が、歴史的にみて豊明の地に伝承されてきたことから昭和一二(一九三七)年一二月二一日に国の指定史跡にされた。
桶狭間古戦場と伝えられる地は隣接する名古屋市緑区にもあり、本家争いみたいなことをしていることを何度か過去記事に書いたことがある。同時代の史料が乏しく江戸時代の文献ばかりが多いことが紛争のタネなのだそうだ。
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もともと行こうと思っていたのは、こちらの神明社だった。
本社拝殿。
拝殿右手に、真っ赤な紅葉と…
紅い実をつけた喬木があった。しばしば書いてるように、晩秋・初冬の草木は色鮮やかなものが多い。
Google画像検索するとクロガネモチと表示された。
足元にも可憐な花の植え込みが。
サザンカのようだ。
摂社末社に上る石段の脇には、葉も実も真っ赤な低木があった。
アカナンテンかな? やはり画像検索結果による。
なんでこの神社に行こうと思ったかというと、神社の裏手に(拙宅から見てだけど)かつや があって…
今まさに「年末感謝祭!!」というイベントをやっていたのだ。
10no3(id:k10no3)さんのエントリーで教えてもらいました。ありがとうございます。リンク失礼します。
期間が4日間と短いから逃がしちゃいけないと思ったことも、今回の動機の一つだった。首尾よく特価メニューにありつくことができた。なじみの場所であっても、お参りと外食は相性がいいということで。
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