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ハナショウブが名物だという萬葉公園高松分園にいわば下見に行った

昨日付(3/31)拙エントリー に書いたスマホのメモリー増設microSDカードが突然死した件だが、冷静になってみると大榑川堤のソメイヨシノ写真が失われただけでダメージは比較的軽かったように思う。

シャープAQUOSは外付けメモリーへのデータ移動がなんだか面倒で、スマホカメラの写真こそ外付けメモリーに保存先変更したが、電話帳その他の保存先は本体メモリーに残したままだったので軒並み生きのこっていた。

大榑川沿いにある平田公園というところの写真は初めて撮ったのでちょっと惜しかったが、大榑川堤は2週間ほどすると今度はヤエザクラが見頃を迎えるので、その折にでもリベンジすなわち撮り直そうと思っている。

 

なお、やはり昨日付拙過去記事には「基本機能で4年前の機種に見劣りするなんて」と悪口を書いたが、本体搭載のメモリーの量は増えているらしく「設定」でメモリ―残量を確認したら余裕があった。スマホは外部メモリーを増設するものという頭があったが、しばらく増設なしで使ってみよう。

 

今回はAQUOS本体のメモリーに残っていた写真から、萬葉公園にほど近い萬葉公園高松分園というところの写真を貼っていく。ここはハナショウブが名物だそうだ。花の盛りは何ヶ月か先だが、分園というだけあって萬葉公園から決して遠くないにも関わらずまだ来たことがなかったので、駐車場の有無の確認などいわば下見のつもりである。

 

無料駐車場は、ズバリあった。

左端の道路案内に「萬葉公園(高松分園)と書いてある。

 

車止めに金属製の万葉歌碑が嵌め込まれていた。

 

コントラストの強弱が弱くてOCRにかからなかったので、手起こしした。

わがころも
摺れるにはあらず
  高松の
野べゆきしかば
  萩の摺れるぞ

 

夕されば
 衣手寒く
  高松の
山の木ごとに
  雪ぞふりたる

 

春がすみ
 たなびく今日の
  有月夜
きよくてるらむ
  高松の野に

高松づくしだが、ここの高松のことではあるまい。さりとて本来それぞれどこの高松かまでは調べていない。

 

ことさらに
 衣は摺らし
  おみなへし
咲野の萩に
 にほいて居らむ

この歌には高松出てこないな。

 

案内板。栽培しているハナショウブ、ハナハス、スイレン、カキツバタの品種名がずらり列記してあった。

 

昨日付拙記事に書いた通り萬葉公園本体は住吉社と八剣社という神社の境内を連結したような構造になっているが、ここは白山社という神社の境内を利用しているらしい。

 

ちゃんとお参りしました。神社にソメイヨシノは欠かせないとみて、本数は決して多くないが花盛りを迎えた木が何本かあった。

本社拝殿側からソメイヨシノの枝越しに鳥居を撮ってみた。

 

暮れかかった西日の光線の加減がよかった写真を載せる。

 

回遊式庭園というのだろうか、花壇(?)の周囲に歩道をめぐらす構造だった。

 

一部、すでにハナショウブの苗が植えてあった。

 

ここにも万葉歌の立て札があった。とうぜん萬葉公園本体部に立っていたものとは重なっていない。

 あやめ
ほととぎすいとふ時なし
あやめ草かづらにせむ日
こゆ鳴き渡れ
  大伴家持

 

 はす
ひさかたの雨も降らぬか
蓮葉にたまれる水の
玉に似たる見む
  詠み人知らず

 

 かきつばた
かきつばた衣にすりつけ
ますらをの着そひ狩りする
月は来にけり
  大伴家持

 

他にもいくつか役物があった。

画像調整してOCRにかけた文字起こしを貼る。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。

  餅搗き石臼
 尾張大國霊神社の儺追神事は国府宮裸祭りと称し天下の奇祭として有名です。
 この祭礼に六十三年ぶり、萩原町奉賛会から大鏡餅が奉納されました。
 古事に習い十三基の石臼を新調し五十俵の大鏡餅を搗き上げ、盛大なパレードにより奉納されました。
 大鏡餅奉納の想い出として、使用された石臼の一基を萬葉公園の一偶に据えさせてもらいました。
 平成二十二年六月吉日
 寄贈 一宮中ライオンズクラブ

 

 昭和二十二年 奉納「国府宮はだか祭の歌」
 萩原町は、終戦後の食糧難であった昭和二十二年(一九四七)二月三日、尾張大国霊神社(国府宮)の儺追神事「はだか祭」に大鏡餅と「国府宮はだか祭の歌」を奉納した。
 当日の朝、萩原小学校で搗いた十二俵の大鏡餅を牛車に載せ、降りしきる雪の中を「奉納の歌」を先導に美濃路を通り、国府宮神社に奉納した。
「奉納の歌」は、帰郷してまもない詩人佐藤一英(一八九九~一九七九)が七五調の詩を作詞したもので、町民は、尾張地方で歌われていた祝い唄「木遣り唄」の曲に合わせ、幾晩も練習を重ねた。この時の歌う町民の様子を、一英は「私はかつてみたこともない輝かしい晴々しい喜びにほこれていた」(「詩と生涯」)と書いている。
 このたび、当時の様子を伝える佐藤一英の直筆原稿『詩と生涯』(未発表)と、はだか祭を掲載した夕刊「サン写真新聞」(東京)が発表され、この貴重な歴史的な資料を後世に語り伝えるため、「佐藤一英語誕生一一一五周年」を機会に、ここに記念碑を建立した。

 

 奉納 国府宮はだか祭の歌
  佐藤 一英
はだかつやつや しんまで白し
まるいこころか 国興す
なおひ祭りは みくにの花よ
はだかはだかに 雪が散る
はだか鉢巻 けがれを払ひ
みくにおこしの 春祭り
 昭和二十二年二月三日
  中島郡荻原町奉賛会

 

佐藤一英の詩碑「裸」
 尾州地方が、「毛織物王国」の名を全国に轟かせていた昭和四十六年(一九七一)の春、岐阜県恵那市の飯地高原に勤労者の保養施設「自然散歩村五明センター(一宮生活協同組合)が開村されました。
 その記念事業として、自然散歩道に「自然林の賛歌」である佐藤一英の詩碑(韻律詩)が建立されました。
 自然散歩村の閉村に伴い、このたびの一宮市制施行九十周年を機に、郷土を愛した詩人佐藤一英のふるさとに詩碑を移設し、ここに末永く保存することにしました。
  平成二十四年(二〇一二)九月
  寄贈 一宮中ライオンズクラブ

 

  裸
花散らせ 林明かるし
小石にも 声はあるべし
恥はなし 日当の草生
小鳥らの 心にふれむ
  一英

 

 この詩碑は、郷土の詩人、佐藤一英(一八九九ー一九七九)の青年期を代表する長詩「大和し美し」の最終句です。
 日本武尊の一代記を詠ったこの詩に感動した版画家、棟方志功は、ただちに版画化し、出世作となりました。
 これによって両者の名声は、広く知られることとなりました。
 詩人の没後、その遺徳を偲び業績を讃え、森鉐太郎を代表とする郷土の発起人により「佐藤一英詩碑建設委員会」が設立され、全国の有志より基金を募り、昭和五十五年四月六日に建立されました。その後、平成十一年十月十三日、「英生誕百年を記念して、ふるさと切手」が発行されました。

いやはや、萬葉公園本体もそうだったが、佐藤一英推しすごいね。

棟方志功は知らないわけがないが、恥ずかしながらこの詩人の名前は本体のほうを訪れるまで知らなかった。

それを言ったら「奇祭」国府宮はだか祭りの全国的な知名度ってば、どんなものだろうか? 地元では知らない奴がいたらスパイ扱いされること間違いなしだが。

範囲の広さが五十歩百歩というだけで、地元というのはそんなものだろう。

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