昨日付(5/9)拙エントリーを書くにあたってカキツバタで検索したところ、「知立市無量寿寺のカキツバタが見頃」というニュース記事がいくつかヒットした。
いずれもTV局の記事だからいずれ消えてしまうだろうけど、ブログカードを貼ろう。
TBS。
中京TV。
知立市は隣市であるにもかかわらず、無量寿寺というのがどこにあるかも知らないなと思って位置を確認したところ、勤め先から近いじゃないか。拙宅アパートから勤め先には車で通っているが、拙宅―勤め先より勤め先―無量寿寺の方が所要時間が短い。
だが今は在宅勤務ばかりで通勤の予定は2週間先までない。その頃には見頃が終わってしまうと考えていたら、勤務先に近いショッピングセンターで足せるついでの用事をいくつか思いついた。振り込みとか買い物とかリサイクル品の処分とか、どこのショッピングセンターでもできることばかりだったけど。
つまり行ってみたかったということだ。ブログネタ稼ぎにもなるし。
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駐車場は、検索すると知立市文化広場というところに付設の井戸尻駐車場というところが無料で利用できるようだった。ありがたし!
ただし近いとはいえ初めての道のこと、ここに行きつくまでにカーナビの指示を取り違えたりしてしなくていい苦労をしたが、ざっくり省略する。
無量寿寺までは、歩いてすぐだった。
「八橋かきつばた園」という大きな看板が立っていた。「かきつばた祭」と称しているが、期間は4月25日~5月17日と長く、祭礼というより公開期間という意味のように思われる。
上の写真の、ほんの少し左を見たところ。入口こそ分かれているものの、境内は隣接する日吉山王社とほぼ共用だった。しばしば書いていることだが、東海地方は神社に三重塔や多宝塔が残っていたり、神仏分離がわりと緩かったのではないかと思わせる痕跡がそこかしこにある。
順番は前後するが、日吉山王社の本社拝殿を先に貼っておこう。
寺院のほうの入口から入ったのだが、参道(?)右側にさっそく小ぶりの「かきつばた池」があった。大きめの池にたどり着くまでに時間がかかるので、先に貼っておこう。
案内書きが目に入った。ここの敷地には、案内書きがたくさん立っていた。順次、紹介します。
弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。ルビ省略します。改行位置、変更しています。以下同じ。あとOCRにかかってくれた写真と判読できなくて手起こしした写真があるが、いちいち断りません。
謡曲「杜若」と業平の和歌
謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び、「かきつばた」の五文字を頭に置いて
「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば
はるばる来ぬる 旅をしそ思う」
と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。
東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現われ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。
謡曲史跡保存会
説明書きの右後ろにあった知立市八橋史跡保存館。入館料大人一人150円。帰途に入ったけどここはここで情報量多かったので、書ききれないため展示内容に触れません。
山門または鳥居をくぐると、内部はつながっていたのは前述の通り。左側に3枚上写真の神社の拝殿が見切れていて、右側の無量寿寺本堂との境目に、植え込みといくつかの石碑が立っていた。
これは説明書きによると芭蕉句碑だそうだ。
芭蕉連句碑
市指定文化財(建造物)
昭和四十年一月一日指定
かきつばた 我に発句の
おもひあり 芭蕉
麦穂なみよる 潤ひの里 知足
松尾芭蕉が『野ざらし紀行』を終えた翌年の貞享二年(一六八五)四月に、鳴海の俳人下里知足の家を訪れ、そのとき開かれた俳席での作といわれる。
芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしたのであろうか。
碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海(下里から改姓)で、「安永六年丁酉夏六月」(一七七七)とある。三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである。
知立市教育委員会
八橋古碑。植え込みに入るまいと思ったら遠くからしか撮れなかった。
八橋古碑
市指定文化財(建造物)
昭和四十年一月一日指定
八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れた。
この碑は、岡崎藩に仕えた儒者 秋元嵎夷、その門人国分伯機・由良不淰により、寛保二年(一七四二)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。
碑文は「八橋紀事并王孫歌」と題され、八橋と在原業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。
亀形の碑の台を亀趺といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では「亀甲碑」とも呼ばれる。
知立市教育委員会
知立市の観光案内HPによると、碑文を一気に読むとカメが動くとか。
そこかしこに立っていた「京都銘菓八ッ橋」の幟。
奥に見えるのは棟方志功の版画のコピーだった。
説明書きの部分だけ文字起こし。
棟方 志功(むなかたしこう)、1903年(明治36年)9月5日-1975年(昭和50年)9月13日は日本人の版画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
歌川広重にならって東海道53次を版画で表現した。初めに左の版画「知立杜若祭の柵」を発表し、その2年後に右側の版画「知立杜若祭雨の柵」を発表した。
あとで山下清の貼り絵のコピーも見つけたが省略。
無量寿寺本堂。
本堂右側に立っていた説明書き。
八橋山無量寿寺
臨済宗妙心寺派
慶雲年間(七〇四~八)に創建された慶雲寺が、弘仁三年(八二一)八橋のこの地に移され、無量寿寺になったと伝えられている。
寺宝
売茶翁茶笈 県文化財
墨蹟 市文化財
長線 市文化財
業平八橋図 市文化財
そのほかにも多くの宝物がある
無量寿如来というのは阿弥陀如来の別名なので、阿弥陀仏を本尊とする浄土教系かと思ったら臨済宗だった。
それにしては背後に、たぶん真言の梵字と「南無大師遍照金剛」が墨書された柱が立っていたりする。かつては真言宗だったとのことで、仏教寺院も神社に負けず劣らず融通無碍なのだろう。
本堂右手前にあった「業平竹」。
業平竹
植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。
一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹と称え縁結びの竹として俗に信仰されている。
本堂左手前には「ひともとすすき」というのがあった。
ひともとすすき
謡曲「井筒」の故事にならって植えらえたと伝えられている。
八橋の一もとす々き穂にいでて
はるばる来ぬる人まねくらん
と「三河名勝図絵」にはあります。
このすすきを片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。
接写すると、手前のほうの葉っぱはほとんどがこんなふうに結ばれていた。
ススキにしてみれば「迷惑な」と思っているかも知れない。
本堂の左側を抜けて裏手に回る順路を通り、ようやくメインとおぼしき「かきつばた池」にたどり着いた。
本堂が丘というほどではないが小高い場所に建っていて、池を見下ろす形になっていた。
池のほとりに立っていた句碑。
読めなかったけど、検索すると「村こぞり育てつぎ来し杜若」と刻んであるらしい。
確かに花は鮮やかだったけど、同じ青紫色の花ばかり多かったことが物足りない気がした。
一部に赤紫の花も混じっていた。白いのもあったかな。欲を言えば、もうちょっと違う色の比率を高めてほしかったような。
あずまや。
カキツバタといえば橋なのであろう、あちこち橋がかかっていたので花の接写には便利だった。
「在原業平と万葉椿」。
在原業平と万葉椿
八橋の街道沿いには、珍種といわれる“万葉椿”が多くみられる。文献によると椿は日本古来よりの花木で、万葉の頃から、椿をよみこんだ歌もみられる。在原業平も東国への旅に出て八橋に至りこの里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ“万葉椿”とよんだところ、その後村人たちは、業平万葉椿と呼ぶようになったと言い伝えられている。
今回はいつに増して案内書きの文字起こしが多く、すでに3,600字を超えてしまったので、ここまでを一旦「前編」として公開する。
追記:
「後編」書いた。やはり文字起こしが多かったため5,200字ほどになった。
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