🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

『学校なくなっちゃった!』拾遺

このシリーズでは「新着お目汚しを避けるため、日付をさかのぼって公開しています」というのを決まり文句にしていますが、前々回に続いて前回もまた手違いでリアルタイムで公開してしまいました。失礼しました。

なんで日付をさかのぼって公開しているかというと、「はてなブログ」に公開しているのはあくまで草稿のつもりで、しかるによって頻繫に手を入れているからである。決定稿つか第2稿をどうするかは未定。

このエントリーもまた、日付をさかのぼって公開しています。今度こそ間違ってないはず。

 

これまでにも弊ブログには何度か創作物をアップしてきたが、そのたびしみじみ思うのは「作家さんたちは例外なくみんな天才だ」ということである。人間離れしている。なんで創作活動を生業〔なりわい〕にできるんだろう? 特に新聞雑誌に小説を連載するとか、TVの連続ドラマの脚本を書くとか、人間業じゃねぇ! けだし才能があるとは、そういうことなんだけど。

 

もうひとつ「作者の作品の最大の読者は作者本人」ということを弊ブログに何度か書いたが、今回もそれを実感した。「キャラクターが勝手に動き出す」ことがあるとしばしば言われるが、本作の場合、ヤマシマ広報ロボットがこれほど動いてくれるとは予想しなかった。8月11日付「(9)第7景 ナゾジャ市広報担当ヤマシマ(その1)」の冒頭に「最終的にぶっ壊れるというギミックを予定している」と書いたが、実はそれを思いついたのは、この日のエントリーを書いているまさにその最中だった! こんなこと、あるんだ。

そうすると名だたる大作家さんたちが、どれほどの高みに達しているのかを、想像するだけで目のくらむ思いがする、ということも以前に書いたことがある。

www.watto.nagoya

 

それはともかく、自分の書いたものをざっと見返して、読みづらいところは少しでも読みやすくなるよう徹底的に手を入れなければならないと感じる。それから気になったのは、他のフィクションに対する言及は減らせるだけ減らさなければならないということだ。私の読んだ本を、読者のみなさんが読んでいるわけではない。読んでいないことのほうが多いだろう。逆に、読者のみなさんが読んだ本を、私がすべて読むことは不可能である。

 

いらんこと言いの悪癖を発揮したくなった。日本文学の巨人中の巨人というべき作家の遺児が、作家になった。その人のたぶんデビュー作を読んで、これは絵に描いたような「七光り」だ、と思ったことがある。素人臭さが歴然だったのだ。素人臭く感じた具体的な理由の1つが、作品中に自分の好きな作品を脈略なく次々に並べていことだった。

それでも当時の私は、自分の読書量の少なさを恥じる部分もあった。名の知られた作品を生きているうちに読みつくすのは不可能であることを、数値的に確認する以前のことである。

www.watto.nagoya

 

本作に関しては、言及するのは芥川龍之介だけにすべきだったように思う。だが8月15日付「(12)第7景 ナゾジャ市広報担当ヤマシマ(その4)」の宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』は残したい。むしろ同書を読み返して記述をもっと充実させたいくらいだ。どうしたものか。

とりあえず8月12日付「(10)第7景 ナゾジャ市広報担当ヤマシマ(その2)」のヤマシマ広報ロボットの発言から、以下の部分は削除した。

小松左京『日本沈没』というSFの古典的名作がありますが、地球物理学の専門家が読んだところ日本列島が海底に沈むプロセスは、不正確とは言わないが1万年単位で進行することを1年単位に時間を早送りしたようなものだということでした。

削除したといいつつ、ここにコピペしたら残ってるじゃないか、という突っ込みは黙殺する。

 

8月20日付「(16)終景 真相(その2:完結)」からは、ちょっと惜しかったが以下の部分をごそっと削った。あと『エヴァンゲリオン』に言及した部分も削った。

真琴「ところで『学校なくなっちゃった!』という本の中に『学校なくなっちゃった!』という本が出てくるのは、いいんですか?」

裵デスク「そちらの前例だったら、山ほどある。古くは仏典の『法華経』すなわちお経だが、お釈迦様が耆闍崛山という原始仏教の拠点で『法華経』という経典自身を講釈するというので、十大弟子や文殊菩薩、弥勒菩薩ら有名な菩薩たちが集結する場面から始まる。そして『法華経』の中で『法華経』を読誦する功徳が、繰り返し述べられる」

道大「比較的新しいところでは、実験小説を多く手掛けている筒井康隆先生が、1990年代に朝日新聞に連載した『朝のガスパール』では、ネットを通じて、当時はパソコン通信でしたけど、筒井先生と読者がアイデアを出し合って『朝のガスパール』自身を完成させるんでしたよね」

裵デスク「物語の中に主人公が入っていくというパターンだったら、それこそ数限りなくあって、エンデ『はてしない物語』では、映画のタイトルは『ネバ―エンディングストーリー』だが、主人公のバスチアンが『はてしない物語』という本を読んでいるうちに、本の中に入ってしまう。また帰還譚でもある」

道大「北杜夫先生の『船乗りクプクプの冒険』もそうですね。しかしネタバレになっちゃうけど、あの小説のラストでは…」

真琴「(独白)やれやれ、この人たちオタクだったんだ。物語論を始めると、ロボットヤマシマ以上に暴走して止まらなくなっちゃう」

今、思い出すと北杜夫『船乗りクプクプの冒険』は、後味の悪い小説だったなぁ。オチはもとより、作者自身をモデルとした「キタ・モリオ氏」というのが、徹底的な怠け者として描かれていて愛しにくいのだ。

 

ここでむくむくと収集癖が頭をもたげた。自力だけで調べるのは限界があるから、ChatGPTに訊いてみた。

私の入力した質問文は、次の通り。

小説について教えてください。ある小説の中に、その小説が出てくるものがあります。例えばミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の中には、主人公が『はてしない物語』を読む場面があります。このような例は他にもありますか?

 

チャットGPTの回答は、以下の通りだった。

はい、「物語の中にその物語自体が登場する」構造を持つ小説は、メタフィクションの一種として知られています。このような作品はいくつかありますので、いくつか代表例を紹介します。

1. ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』
アリスが鏡の国に入り、鏡の国で自分の冒険を見つめるようなシーンが登場します。物語の中でキャラクター自身が自分の物語を意識することが特徴です。

2. ホルヘ・ルイス・ボルヘス『バベルの図書館』
この短編小説は、無限の本が存在する図書館が舞台で、その中に無限のバリエーションで同じ物語が存在します。自己参照や無限のループがテーマとなっています。

3. ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
この作品では、物語の中で物語や書物が重要な役割を果たし、登場人物が読んでいる本がその小説自体とリンクするメタフィクション的な構造が見られます。

4. スティーヴン・キング『ダーク・タワー』シリーズ
このシリーズでは、登場人物たちが自分たちの物語が実は書かれたものであることを徐々に理解していき、物語の作者であるスティーヴン・キング自身が作中に登場するというメタ的な展開が繰り広げられます。

5. イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
この小説は、読者がまさにその物語を読み進める形で進行します。主人公が読む物語が連続して挿入され、それが次第に読者自身が体験する物語と重なり合います。

このように、自己参照やメタフィクションを取り入れた作品は多く、作中で物語そのものやその構造に対する意識を読者に促すことが特徴です。

いやはや、いつもながらチャットGPTはすげーや。web上の情報を収集して自然言語らしく整形し出力しているということは、わかっていても。8月7日付「(6)第4景 旅の支度」でミチヒロ君に言わせた通り、自然に「ありがとう」と言いたくなりません? 私だけ?

 

だけど、私がこの中で読んだことのあるのは 1.『鏡の国のアリス』だけだったが、あの本の中に『鏡の国のアリス』という本自体は出てこなかったはずである。ChatGPTの説明文にも、そうは書かれてないよね。

2.~4.は、恥ずかしながら未読である。どんなに読んでも未読の本がなくなることはないと、ここでも開き直るしかない。

 

欧米の作品ばっかりだ、とも思った。ネット上の情報を日本語に翻訳して出力しており、もともと日本語の情報は一握りだからだろう。

日本語の本で他にないかちょっと考えて、小松左京『題未定』というのを思い出した。ただし小松の作品の中ではマイナーの部類であり、あえてこの本から手に取る必然性は薄いように思われる。作者自身とおぼしき主人公が、新作長編のタイトルが決まらないといって悪戦苦闘し、イタリア語で「お茶をください」の発音が「ダイ・ミ・テ」に似ているとか、10セント硬貨=ダイムでサービスされるお茶が「ダイム・ティー」であるとか、「だいみてい」のダジャレを思いつくたび主人公たちが理由不明のまま時空を超えてそれらの言葉にふさわしい場所に連れ回されるという、ま、トンデモSFである。

とうぜん他にもあるはず。