昨夜の9時半頃、帰宅するため地元の私鉄に乗った。
車内アナウンスで、人身事故のため私が利用する路線の電車が止まっているとの告知があった。
並走するJRの代替運転はあるとのことだったが、拙宅の最寄り駅はJR路線から遠く離れている。
頭の中で、現地点から拙宅最寄り駅への経路をいろいろ思い浮かべたが、私鉄路線の運転再開を待つ以外の手はなさそうだった。
普段は降りないがホームのベンチがいちばん空いてそうな急行停車駅で下車し、自販機で買ったエナジードリンクを飲みながら、運転再開を待った。
アナウンスによると、運転再開の目途は10時半頃とのことだった。
人身事故の影響を受けることは、近年わりとよくある。
直近では一昨年の秋だったか、立て続けに2件、遭遇したことがあった。
今年の夏には、台風で止まるかなと思って乗車を取りやめた電車が、台風では止まらなかったが人身事故で止まったことがあった。
ホームで待つ身としては「人身事故」以外の情報はない。ただ想像をめぐらすのみである。妄想と言ったほうが適切かも知れない。
大それたことを、ふと考えてしまった「もし私がそばにいたなら、救えただろうか?」。
鴻上尚史の言葉が浮かぶ「一人の人間の一生を救うのに必要なものは、もう一人別の人間の一生である」。
これを書いている今、誰のだったか、こんな言葉も思い出した「我々はみな、他人の苦痛を耐え忍べるほどに強い」。
1時間弱、電車の復旧を待つのに、いかほどのことがあろうか。
中途駅での折り返し運転を伝えるアナウンスを伴う電車を何本か見送ったあと、最寄り駅で停車する急行電車が、何事もなかったようにホームに滑り込んできた。
時刻は10時を少し回った頃だった。予定の復旧時間より、30分ほど早かった。
車内放送では、人身事故があったこととダイヤの乱れを詫びる短い言葉があった。
私は『正信偈』が暗唱できる。浄土真宗の在家信者の日常勤行の経典で、真宗が強い実家周辺の成人はだいたい暗唱できるんじゃないかと思う。
事故があったという区間を通過する間、声に出さないよう脳内で誦した。
追記:
SNSで指摘があったので追記する。
もし事故が起きたのが復路ではなく往路だったら、私の感情も変わっていたのではないか…?
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