ということで、本来の時系列としては食堂と展望ロビーの間だったが、岐阜県庁新庁舎1Fギャラリーで開催されていた「戦国のメインステージ岐阜」のスマホ写真を貼っていく。
正式名称はGALLERY GIFUとアルファベット表記するようだ。
ポスターを接写した。
説明書きは、手起こしした。
岐阜県は、斎藤道三が下剋上を体現した地、織田信長が天下布武を掲げた地、
さらには、徳川家康が関ケ原の戦いを経て天下泰平の世を気づいた戦国の大舞台です。
400年余の時を経てもなお燦然と輝く、数々の歴史の転換期となった城・史跡を紹介します。
開催期間
2月17日(月)▶4月25日(金)
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展示スペースに入ったところ。小ぶりのコンビニほどの広さだった。
入口を振り返ると、甲冑が展示されていた。石田三成と徳川家康のものだそうだ。
「関ヶ原の戦い」の説明書き。
弊ブログ勝手に恒例、Googleレンズによる文字起こし。開業位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。
慶長五年(1600)九月十五日。天下の覇権を狙う徳川家康率いる東軍と、阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍が、関ヶ原を舞台に、天下分け目の決戦を繰り広げた。両軍布陣後も前夜からの深い霧で見通しがきかない。薄暗い霧が、これからここで起こる激戦を予知するかのような空気さえ醸し出していた。緊張感の漂う中、無言の睨み合いは続く。
霧が少し晴れた午前八時頃、東軍・井伊直政により、決戦の火蓋は切って落とされた。総勢八万四千の西軍が、必勝の陣形で東軍を迎え撃つ。一方、東軍は七万四千人。大将・家康は、桃配山に本陣を置き、戦況が不利になると、本体を激戦地・陣場野まで前進させ、東軍の士気を高める。正午ごろ、家康からの圧力もあり、 小早川隊は反旗をひるがえし、同調した他軍とともに、大谷隊を衝く。その後、小西・宇喜多隊は敗走。さらには石田隊も勇猛果敢に応戦するが挽回の余地なく敗走。天下分け目の決戦は、開始よりわずか六時間あまりでその勝敗が決まった。
入口右手側。一面ガラス張りだった。
企画展の趣旨書きと年表。こちらから先に文字起こしするべきだったか。年表の文字起こしは、さすがに見送った。
戦国のメインステージ岐阜
幾筋の川と急峻な山々に囲まれた岐阜の大地には、その自然地形を巧みに利用した戦国の城(史跡)が数多く伝えられる。その動乱期には斎藤道三、織田信長をはじめ、武田勝頼、金森長近、石田三成、徳川家康ら名だたる武将や美濃。
その地を訪れると、現代でも往時の武将たちの息遣いが聞こえてくるようである。
現代的な価値判断からすると戦国時代の人々はパワハラとトラウマ・PTSDにまみれていたはずで、もちろん歴史的必然性はあったろうけど無前提で美化する気にはなれない。
展示物のメインは、城郭のジオラマだった。岐阜城。
岐阜城 日本100名城
■岐阜県岐阜市大宮町
■山城
■築城年代 建仁元年(1201)
■主要城主 斎藤氏、織田氏
■15世紀中頃美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。天文2年(1533年)新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。永禄10年(1567年)織田信長が稲葉山城下に侵攻(稲葉山城の戦い)。信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し岐阜と改める。
◎鍬匠甲冑屋 ジオラマ製作20221124お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 岐部博作
またまた、いらんこと言いの悪癖発揮。何日か前に、岐阜城は記録が残る中では最多の6回の落城を経験しているという記事をたまたま読んだ。
山頂の平地が少なく大勢の兵が立てこもるには適当ではなかった、水が湧く井戸がなかった、という理由が並べられていた。確かに尾根道伝いに用水路を掘削し名園・兼六園を設けた金沢城は例外中の例外としても、名城あるところ名井戸ありというイメージはある。そんなに多くの城址を訪れたわけじゃないけど。
ところで6回の落城って、どれどれだろう?
ブログカードの記事は
斎藤道三が守護代斎藤氏から城を奪った1525年が1回目、
織田信長が斎藤龍興を追放した1567年が3回目、
豊臣秀吉が織田信孝を破った1583年が5回目、
としている。
竹中重治がクーデターを起こして城を一時的に占拠した1564年が2回目、
関ケ原の前哨戦で織田秀信が東軍に降参した1600年が6回目、かな。
4回目は何だったっけ?
ガラス張りの中の展示物は他にもあったけど、スマホ写真を撮ってなかった。
大垣城だけは撮った。
大垣城 続日本100名城
■岐阜県大垣市郭町
■平城
■築城時期 天文4年(1535年)
■主要城主 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、久松松平氏、戸田氏
■大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年 (1535年)に築城(伝)された。関ヶ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となった。その後、戸田氏が十万石の城主となり、明治まで太平の世が続いた。昭和11年(1936年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945 年)7月戦災で焼失。
◎鍬匠甲冑屋 ジオラマ製作20210629お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 岐部博 作
A5判カラー32ページの、立派なパンフレットが置いてあった。岐阜関ケ原古戦場記念館のパンフなども置いてあった。1部ずつ頂きました。
中央の三角柱周囲にも、ジオラマが展示されていた。入口側の「菩提山城跡」。
菩提山城
■岐阜県不破郡垂井町岩手
■山城
■築城年代 永禄2年(1559年)
■主要城主 竹中氏
■菩提山にあった山城で、竹中重元が岩手弾正を滅ぼした後、竹中氏の居城として新たに築城したものとされ、麓に竹中氏陣屋が築かれるまで使用された。西美濃では最大級の山城。
◎銀匠甲冑屋 ジオラマ制作 20231126 お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 岐部博 作
その右側「苗木城跡」。
苗木城 続日本100名城
■岐阜県中津川市苗木
■山城
■築城年代 天文年間1532年頃
■主要城主 遠山氏、毛利氏、川尻氏
■苗木城は木曽川の右岸にそびえる高森山に築かれ、岩山の上にあり敷地の確保が困難な為、建物の構築方法に懸造りが使われ自然の地形を有効に活かして築かれた山城である。最大の特徴は巨石を取り込んだ石垣。
◎鍬匠甲冑屋 ジオラマ製作 20210926 お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 岐部博作
「美濃金山城跡」。入口から見て裏側にある。
美濃金山城
■岐阜県可児市兼山
■梯郭式山城
■築城年代 天文6年(1537年)
■主要城主 斉藤氏、森氏
■永禄8年(1565年)には織田信長家臣森可成が城主となって金山城と改称。長可、蘭丸、忠政が城主となって、関ヶ原の戦いの後に破城。一説には犬山城に移築されたとの伝承(金山越)もある。
◎鍬匠甲冑屋 ジオラマ製作 20211018 お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 岐部博作
入口奥と入口右手の壁面には、巨大なディスプレイが設置されていた。
これは右手のほう。
「金華山の頂きにそびえる難攻不落の城としても知られる岐阜城」という字幕が出ていた。
えっ、難攻不落?…やめておこう。
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