昨日の拙記事を書いていて、そんな疑問が浮かんだ。
大昔、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』という本を読もうとしたことがあったが、文字通り歯が立たなかった記憶がある。
だいたい私は自分の文学的感受性、もっと言えば多くの人間に備わっているはずの一般的な感性の一部に欠損があるのではないかと疑っている旨を、過去に何度か自ブログ記事に書いたことがある。
いや、この文章は間違いなく美しい、と思ったことはあるのだけど。
ぱっと思い出したところでは、石牟礼道子最晩年の、ネコを題材としたエッセイであるとか、小池真理子の、亡き配偶者・藤田宜永を偲んだまさに鬼気迫るというべき文章であるとか…
いずれもブックマークに残していたと思ったが、読めなくなっていた。前者は『魂の秘境から (朝日文庫)』に、後者は『月夜の森の梟 (朝日文庫)』に収録されているはず。
そゆえば蛙鳴蝉噪カエルの「鴫立庵」は、言うまでもなく西行法師の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」から採られた名である。
西行ほどの人が「心なき」わけないだろうと思いつつ、ひょっとして西行ほどの人でも「自分には心がないのではないか」と疑ったのだろうかと想像すると、ちょっと気が楽になる。
なんとなく思い出し、ブログに書いておきたくなった。たしかシステムが改変される前のmixiで、当時のいわゆるマイミクさんと交わした会話だったと記憶している。よって今となってはサルベージ不可能である。
相手は大学に教職を得て、まさにアカデミアの世界に乗り出した当初だった。指導教官をたいへん尊敬していて、その指導教官の、こんな言葉を紹介していた。
「マンガ『ワンピース』主人公ルフィの「海賊王に俺はなる」という言葉、とてもいいでしょ。「俺は海賊王になる」と比べたら、その良さは歴然です。でも、この良さを説明する理論は、まだないんです。」
繰り返すがうろ覚えの記憶に頼った再現で、正確さは保証の限りではない。
それに対して、新たなキャリアのスタートに祝福を述べつつ、こんな返しを入れてみた。
ブルームフィールドの「直接構成素分析」という言語認識モデルがある。これはある文章を2つに分割してゆき、最終的に個々の単語にまで行きつくという手法である。
例えば "A pretty girl played the piano in the auditorium." (「可憐な少女が講堂でピアノを演奏した」)であれば、 "a pretty girl" と "played the piano in the auditorium." に分割して、さらに前半を "a" と ”pretty girl" に分割して…という具合である。
出典は町田健『チョムスキー入門~生成文法の謎を解く』(光文社新書) P39~。説明は、この拙過去記事からの再掲である。
この認識モデルを用いると、「海賊王に俺はなる」から「海賊王」というキーワードを析出するのに必要な手間は1ステップだが
「海賊王に俺はなる」→「海賊王に」+「俺はなる」
「俺は海賊王になる」から「海賊王」を析出するには2ステップが必要
「俺は海賊王になる」→「俺は」+「海賊王になる」→「海賊王に」+「なる」
という定式化あるいは定量化が可能ではないか、という指摘を試みた。
そうしたら、さすが相手は専門家、ブルームフィールドは当然知っていて、巧みな例文を用いた反証を返してきた。その反証の例文が、どうしても思い出せないのが痛恨である。
実はもう一つ「海賊王に俺はなる」は七五調だ、という説明も思いついたのだが、それは言わなかった。
あくまで状況はお祝いの場であって、レスバトルのようなことはふさわしくないと思ったんじゃなかったっけ。
もし書いたとしても、軽く一蹴されたかも知れない。それならそれでよかった。
あれから何年になるだろう。自ブログを検索したところ、mixiを退会したのは、ほぼ10年前? ということは、少なくとも10年以上は前なのか! いつものことではあるが wikipedia:ジャネの法則 の恐ろしさといったら…
そして繰り返し書いていることではあるが、特に現今のSNSにおいて、言葉はもっぱら他人を攻撃する道具として用いられ、例えば美しさを探求する道具としての役割は、ほとんどかえりみられないように見受けられる。
それを深く憂いる。