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市内の阿野八劔神社と中島八剱社に参拝

8月21日付拙過去記事 に続く、空調服着用のウォーキングの記録である。

ウォーキングコースのそばに、市内に住んでいながらこれまでお参りしたことのない阿野八劔神社というところがあることを、経路をマップで確認して気づいた。

この市に越してきて20年以上というのに、まだまだ知らない区画が多いことは、去年の9月9日付拙過去記事にも書いた。幼少期に遊びまわったり友だちの家を訪ねまわったりした記憶がないからだろうか。

watto.hatenablog.com

一度くらいは、ご挨拶のお参りをしようと考えた。いつものウォーキングは日が落ちてからが多いが、初めて訪れる神社が真っ暗なのはなんか嫌だったので、今回は日があるうちに出掛けた。

まだまだ暑かったけど、恐れていたほどは暑くなかった。

 

拙宅から徒歩でン十分、用がなければ足を延ばそうという気になれない距離だ。

鳥居の前に何台も停められる参詣者用駐車場があったけど、ぶっつけで車で来ないよなぁ。スクーターは何年も前に手放したし。

 

上の写真左方の由緒記。

弊ブログ勝手に恒例、フォトの機能で文字起こしした。ただし、ちょっと長くなるので右の祭神一覧と左の年譜は省略した。改行位置、変更しています。

 阿野町ご鎮座の八劔神社創建については不詳ですが、境内一帯から今も須恵器が出土します。須恵器は古墳時代中期から奈良時代に使用された硬質の土器です。境内からは多くの杯、かめ、皿などの破片が採集されます。これらの須恵器により千五百年前より八劔神社を中心とした地域に人々が居住していたことが証明されます。
 この一帯の地形を見ても衣浦湾の最北端に位置し、気候温暖で、天災も少く、魚介類も手に入り易く、稲作にも適し恵まれた環境で、あったと思われます。住む人々の心の拠りどころとしての祭祀の聖なる地にやがて神の社が建立されたと思われます。
 現存する資料としては大正二年に写された永禄元年(一五五八)の棟札があります。この棟札のことは、宝暦二年(一七五二)に尾張藩が松平君山に銘じて編纂した「張州府志」に「天王祠、八劔祠、八幡祠、倶ニ東阿野ニ在リ永禄元年八月之ヲ修造ス」と記されています。松平君山は、寛延二年(一七四九)六月十一日に東阿野村で直接このことを庄屋から聞いていると記されています。
 なお「寛文村々覚書」「尾張徇行記」「尾張志」「尾張名所図会」等の江戸時代の本にも記されています。八劔神社には、豊明市内で最も古い永禄元年の記録が残されています。これにより、永禄元年(一五五八)八月十六日に御酒殿が造営され、同時に本殿が修理されたことが明記されています。

 

手水場。珍しく(?)水が流れていたので、手を濡らした。

 

本社拝殿。立派! 謹んでお参りしました。

 

拝殿右側の摂社末社。こちらもちゃんとお参りしました。

 

こちらも由緒記があった。

改行位置、変更しています。ルビ省略しています。

由緒記
末社 正戸社(ショウドシャ)
祭神 誉田別尊
(品陀和気命・応神天皇)
例祭 八月十五日
勧請年月等 不詳。
社伝によれば、正戸川にあった社(八幡祠)を明治の神社合併指令により八劔神社の境内地の池沼に移し、乎津保宮・おつぼさんの愛称で信仰をあつめとある。
落穂とか田螺(たにし)とか米作農耕に関係がある八幡信仰(豊作祈願)に由来する。
八劔神社の平成大造営に伴い、平成七年現在地に新築移転された。

 

拝殿左側の社務所? こちらも立派だと思ってスマホ写真を撮ったけど、ひょっとしたら神職さんが住んでいるかもしれない。神職常駐の神社いまどき少ないけど、もしプライバシー侵害してたらごめんなさい。

 

境内には、いろんな役物があった。どこもそうだけど、何度か訪れても訪れるたびに見落としていたアイテムを発見したりするんだろうなぁ。

灯籠の手前の説明石板。

市指定有形文化財
 阿野八剱社石灯籠
 (一対)
本市(阿野町林の内)出身
幕末の勤皇家深見篤慶が
万延元年(一八六〇)に
寄進したものである。 
 豊明市教育委員会

「八劔社」と「八剱社」で表記ゆれがあるけど、原則、本社由緒記の表記に従っています。

 

いらんことだが弊ブログでは「本社拝殿」と表記することが多いけど、多くの神社はご神体を納める本社とたいていはガランドウの拝殿から成っていることが多いからで、正しい呼び方かどうかは知らない。ご神体があるのは「本殿」かも?

たまたまここは、真横から写真を撮ることができたので載せる。左が拝殿、右が本社。右手前は末社の正戸社。

 

本社 (本殿) の背後に、可憐な児童公園があった。

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ウォーキングコースに戻ろうと思ったが、どうせだったら途中まで知らない道を歩いてみようと考えた。

そうしたら、ええっ? 少し離れて違う神社があった!

この市に越してきて20年以上というのに、まだまだ知らない区画が多いagain

 

事前に調べたわけじゃないから、境内の横手から入ることになった。

 

本社拝殿。謹んでお参りしました。

 

扁額によれば、ここも八剱社らしい。

 

3枚上のスマホ写真に写っている由緒書きを接写。さきの扁額には「八劔明神」と書いてあったが、この由緒書きには「中島八剱社」と書いてあったので、以下それに従う。

フォトの機能で文字起こし。摂末社の一覧は省略しました。

御祭神 天照大御神 素盞鳴尊 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
元和3年6月(1617)近江の国太郎坊宮より産土神として勧請奉祀。
寛文3年(1663)熱田の別宮、八宮より天照大御神、素盞鳴尊を御祭神として勧請奉祀。
これより八大明神と称される。この時の棟札に建立始寛文3年(1663)今歳天保10巳亥年迄177年と記述。
社伝に文政4年8月(1821)大日照りによる雨乞神として、新田中嶋八剱社「多度社」、沓掛諏訪社、川部八龍社を雨乞い三社巡りの鎮守として崇敬篤く近年まで雨乞い神事が執り行われた。

 

本社左側の摂社末社。8柱あった。

 

さらに左側の祠。金刀比羅社とのことだった。

 

本社右側の、ちょっとうっそうとした杜の中に、石仏(不動明王)の祠があった。ときどき書いてるけど、うちの地方は神仏分離が緩い。

 

本来とは逆の順路(?) で、正面鳥居から境内を出た。

  定
一.車馬ヲ乗入事
一.魚鳥ヲ捕ル事
一.竹木ヲ採ル事
 右條々於境内
 令禁止者也
 中島八剱社

 

ここも正面鳥居の前に児童公園があった。右手前は庚申塚だった。

そゆえば庚申塚って神道だっけ? 仏教だっけ?

AIに訊いたら

庚申塚(こうしんづか)は、神道ではなく、中国道教を起源とし、仏教と神道の影響を受けた民間信仰(庚申信仰) に基づいて建てられた石塔です。そのため、神道と仏教の両方の要素が絡み合っています。

と言われた。

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