目次 各「その1」のみ クリックで詳細表示
(13) 第3景【鎌倉編】馬借・欠七(1/2)
(15) 第4景【現代編】個室病棟にて(1/2)
(17) 第5景【鎌倉編】ボクの無双(1/2)
(19) 第6景【鎌倉編】被差別集落(1/4)
(23) 第7景【鎌倉編】霊感商法(1/5)
(28) 第8景【現代編】ボクシング
(29) 第9景【鎌倉編】地頭・稲田(1/2)
(31) 第10景【現代編】哲学者
(32) 第11景【鎌倉編】心霊教ふたたび
(33) 第12景【現代編】裵〔ペ〕デスク
(34) 第13景【鎌倉編】刺客
(35) 第14景【現代編】守衛
(36) 第15景【鎌倉編】大団円(1/4)
(40) 第16景 鎌倉編の後始末
(41) 終景 現代編の後始末(1/3)
新着お目汚しを避けるため、日付をさかのぼって公開しています。登場人物の生死にかかわる展開や、排泄関係を含む劣悪な衛生状態に関する記述が頻出するので、閲覧注意です。
…という文言を2度ほど貼って「フィクションで登場人物の生死にかかわる展開があるのはあたりまえだろ?」という自己突っ込みが発生したが、今後、登場人物が "死" に関するシリアスな悩みをたびたび開陳する予定がある、というほどの意味です。
前回はこちら。
(主人公のナレーション) 捨六さんに先導されて歩きながら、秘書インコからこの時代の情報を、いろいろ引き出そうと試みた。
「今の将軍は誰だったっけ?」
秘書インコ「三代将軍源実朝です。4年前の1203年に、兄で二代将軍の頼家が伊豆に追放されたことを受けて就任しました」
そうだった。この時代は「治承・寿永の乱」すなわち源平の争いが源氏の勝利で決着したのち、源氏の棟梁にして初代鎌倉将軍の頼朝が急逝し、その後の幕府内の激しい内訌を経て最終的に北条氏が権力を掌握する途上にあるのだった。
権力のトップにある人たちの動向を知ったからといって今の自分に直接どんな影響があるのか、よくわからない気もしたが、それでも知識がまったくない状態よりはマシだと思った。
「ただし、この時代はまだ京都の朝廷も、隠然たる権力を保持していたんだよね」
秘書インコ「隠然どころか、二重権力といったほうが正確です。1185年に鎌倉幕府が全国に配置した守護・地頭は治安・警察権力を握っていますが、徴税権は多くの地方では律令制時代以来の国司・郡司が握っています。徴税権が完全に前者に移動するのは、室町時代です」
「そうだった」
秘書インコ「ちなみに今の朝廷のトップは1198年に即位した土御門天皇ですが、実権は実父の後鳥羽上皇が "治天の君" として維持し続けています。すなわち院政です」
「後鳥羽上皇!」
この名前を聞いたとたん、ボクは憎悪とも嫌悪ともつかぬ感情に襲われ、全身がカッと熱くなるのを感じた。理由は、この時点ではわからなかった。
後鳥羽上皇を、もともと知らなかったわけがない。歴史的ネタバレというやつだが、何年か後には承久の乱で北条義時に武力で打倒され挫折する人物だ。
「秘書インコ、承久の乱は西暦何年?」
秘書インコ「1221年です」
このあたりのことは、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でとりあげられた。それをきっかけに坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書) という本を読んだりもしたのだ。
手元に本がないから、うろ覚えの記憶で語るのだが、同書でまず印象的だったことは、後鳥羽上皇の文武両道どころではない多芸多才ぶりだった。
勅撰和歌集『新古今和歌集』の編纂にあたっては終始、主導的な立場をとり、2,000首近くの入撰歌をすべて諳んじたという。あとで上掲書からページを拾ったところP49。以下同じ。
琵琶の腕は当時の名人から「最秘曲の伝授」を受けるほどの腕前だったというし (P50)、スポーツでは蹴鞠の「長者」という称号を奉呈されたという (P55)。そのほか自ら刀鍛冶として刀工も行ったという (P56)。
これらのエネルギッシュな活動は、もちろん王家の当主というこれ以上ない恵まれた環境に育まれたものだろうが、いっぽう安徳天皇の都落ちに伴う歴史に前例のない「神器なき践祚 (即位)」を強いられたコンプレックスへの代償という見方もできるそうだ。また (上掲書中に記述はないが) これ以上ないプライドの持ち主であったことをうかがわせる十分すぎる根拠でもあると考える。
ところで同書の前半のほうを読んでいて、気になったことがもう一つあった。時代時代のキーパーソンと言うべき人物が、わりと早く世を去っていることだ。安徳天皇に代表される、戦乱により命を奪われた人々は別枠としても。
これもあとからページを拾った。土御門天皇の摂政で優れた歌人でもある九条良経が急逝するのは2年後の1209年で、享年38 (P56)。後鳥羽の愛妃である更衣・尾張の局が皇子・朝仁親王 (後の道覚法親王) を生んだ直後に亡くなったのが1204年、ただし生年は不詳 (P52)。土御門の生母である源在子の母・藤原範子が没したのは1200年 (P44) で、生年はやはり不詳だがウィキペディアを参照すると40代のようだ。
これはごくごく一部で、このようなリストを作ろうとすると、かなり長いものになる。このことは衛生状態の劣悪さを、強く示唆するものである。今、名前を挙げた人々は、間違いなくこの時代の最上流層に属するにも関わらず、だ。
(この項つづく)
追記:
続きです。
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