続きです。笠寺公園へ移動した。ここは、敷地内に見晴台考古資料館および住居跡観察舎という施設がある。
前々回拙エントリー 末尾に貼った写真を再掲する。

笠覆寺方向を振り返ったところ。やはり高台にあったのだ。

だが笠覆寺から来ると、住居跡観察舎のほうが手前にあったので、そっちに先に入った。


他に入場者はおらず、貸し切り状態だった。

注意書き。「撮影禁止」の文言はないなヨシ!

説明パネルがいっぱいあった。分量的にぜんぶ文字起こしするわけにいかないから、最初の1枚だけ。

弊ブログ勝手に恒例、Windowsフォト「テキストのスキャン」機能による文字起こし。改行位置、変更しています。ルビ、欧文ある場合は省略しています。以下同じ。
住居跡観察舎と再現住居
住居跡観察舎は、みつかった遺構を現地で常に見学していただくために、昭和33年6月から公開しています。25次調査(昭和61年度)の際にみつかった遺構を樹脂で固め、本来の遺構の上にきれいな砂を敷いて保護したあと、はぎ取った樹脂を置いて遺構の様子を復元しています。
そのなかでも一番大きな住居跡には、竪穴住居1棟を再現し公開していました。ところが平成25年夏には住居跡が傾き、倒壊する恐れが出てきました。住居内の様子を見学出来るように屋根の一部に茅(かや)が葺かれていなかったり、地下の遺構を守るために、柱を地下に打ち込めなかったりした点が影響した可能性があります。
竪穴住居型の建物の中に、竪穴住居の復元模型があるのだな。

地べた付近まで下りられる階段があったので、下りてみた。

右側の、人形のある方の張り紙。


地床炉
竪穴住居跡を発掘すると、床面で赤橙色に変色したところが見つかります。地面が長い間火にあたっていた痕跡です。
この部分が炉と考えられます。
弥生時代後期の土器(甕)は、脚が付いた台付甕でしたので、床面で直接火を焚くことができました。
左側には、小ぶりの竪穴住居の再現模型があった。


竪穴住居での暮らし
竪穴住居内には、炉があり調理をしたり、暖をとったりしていました。
発掘調査では、土器や石器が出土しますが、実際には木の道具が多くあったようです。容器では木製の椀、さじ、高坏、網かごなど、米作りでは田下駄、杵と臼など、魚釣りではつりざおや銛の柄、狩猟では弓や矢などに木や竹、蔓が使われました。
手すりの上から、もう1枚撮った。

展示物や展示パネルは他にもいっぱいあり、写真もいっぱい撮ったけど、全部は貼り切れない。
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見晴台考古資料館に移動した。住居跡観察舎からだと、裏手から回ることになる。

正面入口。

ここも撮影禁止とは書いてないなヨシ!

ロビー。

上の写真の反対側 (入口左側) に、キャラクターの紹介パネルと…

その右に展示室の入口があった。

右側「ごあいさつ」を文字起こし。
見晴台遺跡は、昭和16年(1941年)に銅鐸形土製品が発見されてから知られるようになりました。
昭和22年(1947年)に遺跡のある一帯が公園となることが決まり、どのような遺跡であるのか明らかにするため、昭和39年(1964年)から発掘調査が始まりました。
当館は、見晴台遺跡に関する資料を収集、保管、展示、調査研究を行うとともに、市内の遺跡の発掘調査を行うため、昭和54年(1979年)10月に開館しました。
見晴台遺跡のあらましを紹介するほか、市内の遺跡に関する展示や、考古資料に関するテーマとした展示を随時開催しています。
左奥のテーブルの上に、資料のプリントが3種類、乗っていた。感謝しつつ、1部ずつ頂いて帰りました。分量があるので、ちょっとずつ読んでます。
「第1回 企画展 弥生・古墳時代の暮らし 展」。やはり貸し切り状態だった。

展示物の一部。説明書きがいっぱいあったので、文字起こしはとてもし切れない。
気が向いたら、一部あとで追記するかも知れません。


追記:
左側2枚と中央やや左寄りの説明書きの3枚だけでも文字起こししよう。
左上。
円窓付土器
円窓付土器は、胴部上位に大きな楕円形の孔をもった土器です。尾張地域を中心に分布する地域色の強い土器で、その大半は朝日遺跡出土のものですが、見晴台遺跡からも出土しています。
多くは、土器焼成前に孔を作りますが、焼成後に穿孔したものもあります。また、口縁部を打ち欠いたものもあり、これは墓に供えられていた土器と共通する特徴であるため、墓域での祭祀に用いられた土器とも考えられていますが、具体的な使い方は分かっていません。
左下。
円窓付土器の用途を考えた !!
丸い穴のあいた円窓付土器は、どのように使ったのか。わかっていません。
300個を超える出土がある朝日遺跡(愛知県清須市)の調査事例から、屋外作業を行う時に虫よけ(蚊いぶし)に使ったのではないかと考えました。
中央やや左寄り。
火もらい
江戸時代の陶器で、寵の火が消えると、隣家にこれで火をもらいました。円窓付土器の穴は、火もらいの穴とほぼ同じ大きさです。
追記おわり
だが順路最後の壁面1/4は高射砲台関係の展示だったことは、特筆しておくべきと思った。

撃墜されたB29の破片の展示もあった。
こういうのを見ると、第二次大戦・アジア太平洋戦争と、ウクライナ戦争、イスラエル戦争、イラン戦争…の現代が直接つながっていることを感じる。

ここも展示物や展示パネルは他にもいっぱいあり、写真もいっぱい撮ったけど、やはり全部は貼り切れない。
でも、これだけは貼っておこうかな。ロビーの展示パネル。

「災害時には遺跡のある所へ!」展
〈期間 4月1日~6月21日〉
南区・熱田区の遺跡分布図を見ると、遺跡の大半は、笠寺台地・熱田台地に立地し
ています。遺跡があるところは、昔の人々が暮らしていたところです。遺跡を結ぶと台地の輪郭が浮かび上がります。高台の縁で生活していたことがわかります。
南区・熱田区のハザードマップを見ると、浸水のおそれのない所は白く、笠寺台
地・熱田台地の形とほぼ同じです。
日頃から高台にある遺跡や古墳を訪ねて、高台への道を確かめておくとよいでし
よう。遺跡めぐりは、先人からまなぶ防災(安心・安全)の知恵でもあります。
言われてみれば。覚えとかなきゃ! うちの近所に遺跡あったかな?
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その後、外の笠寺公園を一周した。

散歩の途中で考古学
見晴台遺跡と笠寺公園
見晴台遺跡は、1941(昭和16)年に全国2例目となる銅鐸形土製品が発見されたことで、知られるようになりました。1956(昭和31)年、名屋市はこの付近一帯に都市公園(笠寺公園)を造ることを決めました。そこで、公園造成の前に発掘調査をしてどのような遺跡であるのか明らかにすることになりました。
1964(昭和39)年、第1次調査が行われ、溝状遺構が見つかりました。溝の中から多くの弥生土器が出土しました。胴部に丸い穴があいた円窓付土器や赤い色が塗られた高坏は、この時に出土したものです。こうして最初の調査で大きな成果をあげました。
その後の調査により、弥生時代の住居跡が発見され、溝状遺構(濠)が台地の縁を環状にめぐる、東西約160m、南北約180mの環濠集落であることがわかりました。また、旧石器時代(約2万年前)の角錐状石器、縄文時代晩期(約3千年前)の貯蔵穴や縄文土器、古墳時代や奈良·平安時代の住居跡、鎌倉·室町時代の陶磁器なども出土しています。
1979(昭和54)年10月、見晴台考古資料館が開館し、夏の市民参加発掘、考古学の展示会、講演会、映画会などの活動をしています。1988(昭和63)年には住居跡観察舎、1989(平成元)年には濠再現コーナーが公園施設として公開されました。
笠寺公園は、長い期間にわたって人々が生活していた歴史をはぐくむ公園として利用されています。
「芝生広場」。

「弥生の森」。

弥生時代の人々にとって森は、生活をする上で重要なところでした。
木の実や材木は大切な食べ物や道具となります。
この周辺に植えられている樹木の多くは弥生時代の人々が利用していたと思われるものです。
代表的なものには、さわぐるみやまもも・すだじい・しらかし・
とち・ひのき・さわら・くすなどがあります。
「見晴台遺跡」。

見晴台は笠寺台地東南端近くにあり、かっては海(年魚市潟)に面していた。台地上は全体が弥生時代~古墳時代の集落跡であるほか、鎌倉~室町時代は隣接する笠寺観音の寺地として、僧房か寺関係者の住居群があったと思われる。
毎年夏に実施する発掘調査の結などの自然遺物が出土し、当時の生活を物語っている。
名古屋市教育委員会
「高射砲の砲台跡」。


太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
一周して見晴台考古資料館の前に戻ってきた。さすが自動車都市の名古屋、ここにも広い無料駐車場あったんだ。次来ることがあったら、車で来てもいいかな。年金請求書は郵送するけど。

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