下記ホッテントリがきっかけです。特に後者にはブックマークコメントを付けましたが、今回ばかりはブコメ100字制限内にはとても収まらなかったので、ブログエントリーにしました。ただし私のブコメはいつも元記事から斜め下つーか斜め後ろつーかに脱線する傾向があり、当該記事主題の書籍は未読につきノーコメントです。
倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて - Togetter
倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(1) - 東京下町巡りと中国史・群龍天に在り(FC2版)
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元記事の著者の松平俊介さんが、FC2ブログの方の記事の注釈で司馬遼太郎をたぶん好意的に取り上げていたので、次のようなブコメを書いた。
しかし司馬遼太郎も『史記』を通読しないで『項羽と劉邦』を書いたとしか。司馬は新安での秦兵虐殺をジェノサイドと断じ「世界史的にも類がなさそうである」と述べる(asin:4101152314 p406~407)あの~、google:長平の戦い
少し補足したい。新安での項羽による投降秦兵20万人虐殺に関する部分を、『項羽と劉邦 (上) (新潮文庫)』p406~407から、もう少し長く引用。
大虐殺〔ジェノサイド〕は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺〔まっさつ〕的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
それに対して、タネ本の『史記』には「長平の戦い」というのが述べられていると言いたかったのだ。ウィキペより。
中国戦国時代の紀元前260年に秦と趙が長平(現山西省高平市の近く)で激突した戦い。秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵の捕虜40万が生き埋めにされて処刑(坑殺)され、趙の国力が一気に衰える原因となった。
上記を書くために『項羽と劉邦』の当該部を読み返したら、続きにもっとすごいことが書いてあった。
さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮〔さつりく〕側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者側に恐慌〔パニック〕をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾〔こうかつ〕な方法は、世界史上、この事件以外に例がない。
(『項羽と劉邦(上)』P407 「技術」「労働」に傍点あり)
「項羽がやった」という虐殺の方法は、少し前のページにかなり詳細な説明がある。簡単に言えば、もともと断崖が多い地形なので、秦の捕虜にパニックを起こさせそこに追い込んで転落死させたというものである。これは二十万人規模の大量虐殺を起こす方法として作家が想像力を働かせたものであろうが、根拠はどこにもない。
『史記 項羽本紀』の記述は、実にあっさりしたものである。『史記〈1〉本紀 (ちくま学芸文庫)』の現代語訳。
項羽は黥布〔げいふ〕と蒲将軍を招いて相談し、「秦の吏卒は、なお多く心服していない。関中に行ってから、命令を聴かなかったら、事態は危険になろう。いまのうちに、みんな殺してしまい、ただ章邯と長史欣と都尉の翳〔えい〕を秦にいれるほうがよかろう」と言った。
そこで楚軍は夜襲して、秦卒二十余万人を新安城の南で穴埋めにし、行くゆく攻略して秦の地を平定し、函谷関に着いた。
(『史記〈1〉本紀』P207)
想像を働かせるのは大いに結構だが、自分の想像にすぎないものに「世界史上、この事件以外に例がない」などと説明を付け加えてしまうのは、どうだろう?司馬遼太郎だから許されるのかな?
参考までに『秦本紀』における「長平の戦い」の記述は、以下の通り。短い記述なのに、表現が似通っていることが目を引く。
四十七年、秦が韓の上党〔じょうとう〕を攻めたので、上党は趙に降った。≪中略≫秦は武安君白起に命じて趙を撃ち、大いに趙軍を長平(山西・長治の東)に破り、四十万人をことごとく穴に埋めて殺した。
(『史記〈1〉本紀』P132)
かなり前に「はてブ」のエントリーに書いたが、司馬遼太郎は「史上類がない」みたいな言い回しが好きなのか、よく出てくる。しかしこれらは、史実としては眉唾だし文学的修辞としては多用されすぎて陳腐だと感じる。
翌朝、項羽軍は総力をあげて土工になった。すきやくわを持って断崖のふちに立ち、数日かかって二十余万の秦兵の死骸に土をかぶせ、史上最大の坑〔あなうめ〕を完成した。
(『項羽と劉邦(上)』P407 「すき」「くわ」に傍点あり)
史上最大じゃないっつーの。
まあ司馬遼太郎の書く歴史小説が史実とはかけ離れたものであることが多いことは、歴史ファンの間では常識みたいなもので、専門家の手によるツッコミ集が下記のような書籍にまでなっている。
司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像 (集英社新書)
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この本によると、吉田松陰は、私がかつて漠然と抱いていたイメージとは全然違って、今日びでいうところのネトウヨをこじらせたような人物像が浮かび上がってたまげたが、それはまた別の話。
フィクションはフィクションとして楽しめればいいという立場は、アリかも知れない。
ただもし、「史実と異なっていても、面白ければいいんだ」とか、もっと言ってしまえば「売れればいいんだ」みたいな空気が、広く出版業界を覆っているとしたら、それはいつか自分を陥れる落とし穴を掘っているんじゃないかという悪い予感を感じないでもない。
こんなホッテントリがあったことも思い出した。