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しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることによって人権を守ろうとする試みは経験的に全て失敗している

謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(追加ヒーロー2)

繰り返し書いてる通り「謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー」は「まとめ」で完結のつもりです。昔のパソ通時代に書いたテキストを、ネットのどっか検索できるところに置いときたかったというのが動機です。しかし再録を始めると、元のテキストを書いた以降に収集したネタも、この機会を逃すとたぶん次はないだろうということで、近い場所にまとめておきたくなりました。自分でも引っ張りすぎではと感じていますが、もう少しだけ続けさせてください。

「中国のヒーローの条件7か条」の再掲です。

その一…本人は何もしない

その二…部下が優秀・特に副将が優秀

その三…妻子を不幸にする

その四…放浪する

その五…口は達者

その六…体の一部分に特徴がある

その七…外国と戦う

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前回の「補遺・追加ヒーロー」では唐の玄宗を取り上げました。玄宗楊貴妃のロマンスを歌い上げた白居易の『長恨歌』は「漢皇色ヲ重ンジテ傾国ヲ思フ」というフレーズで始まっています。村山吉廣『楊貴妃―大唐帝国の栄華と暗転 (中公新書)』P50によると、「漢皇」というのは前漢最盛期の皇帝であった漢の武帝のことだそうです。江戸時代に成立した『仮名手本忠臣蔵』が、筆禍を避けるため物語の時代を室町に移したことを彷彿とさせます。

漢の武帝も「中国のヒーローの条件七か条」を、わりとよく満たしているように思います。「またしても王様か」「またしても(ギリギリだけど)『史記』の時代の人物か」ってことになってしまいますが。

前回「補遺・追加ヒーロー」のブコメで shinonomen さんからも指摘がありましたが、王様が多いというのは、条件の方に牽強付会する本末転倒の気味を自覚はしているのです。治世中に業績が多い王様であれば「その一…本人は何もしない」と「その二…部下が優秀」というのが自動的に満たされる可能性が高いのです。

漢の武帝は、漢帝国の宿敵である北方の異民族・匈奴の平定に大きな成果を上げたことで、まず知られます(その七…外国と戦う)。武帝は正妻である皇后を差し置いて、奴隷とも言われる低い身分出身の衛子夫を寵愛しました。ただし後述しますが、衛子夫と彼女の生んだ皇太子の運命もまた残酷なものでした(その三…妻子を不幸にする)。

武帝は衛子夫の縁者を、次々に高官に取り立てました。そのうち弟の衛青と、甥の霍去病〔かくきょへい〕が、将軍として極めて有能で、漢王朝初代皇帝の高祖が大敗を喫し、歴代皇帝も苦杯を舐めさせられ続けてきた匈奴を討伐して、空前の戦果を挙げるのです(その二…部下が優秀)。

陳舜臣中国の歴史(二) (講談社文庫)』P435には「漢王朝は劉氏のものでした。国家は私物であったのです」という実に身も蓋もない表現があります。同じ縁故人事であっても武帝の場合はたまたまうまくいき、800年後の玄宗の場合は危うく国を滅ぼしかねない大失態に至ったということでしょう。

衛青と霍去病に関しては、さまざまなエピソードが伝わっています。有名なものは、奴隷出身の衛青は国家の元勲と言われるまで出世しても誰に対しても腰が低かったのに対して、若い霍去病は生まれながらの貴人であり部下の苦労に理解がなく、遠征の際に部下の将兵が飢えているのに兵糧を腐らせたとか、飢えている部下そっちのけで宴会をしたとかという話があります。それでも民衆の人気は、苦労人の衛青ではなく若く颯爽とした霍去病に集まったというから、わからないものです。

日本で言うと、従来の憲法解釈を逸脱した法律を制定したり、各種社会保障費や教育予算に大ナタを振るったり、マスメディアに露骨な圧力をかけたりする安倍政権の支持率が衰えないのと、どこか似たところがあるかも知れません、と、たまにゃ荒れそうなことを言ってみる。

閑話休題。ただし二人の活躍も匈奴の完全な打倒には至らず、特に霍去病が二十四歳の若さで世を去って以降は、匈奴討伐の遠征もたびたび繰り返されたものの、李陵の敗戦、蘇武の抑留といった、漢王朝側から見てネガティブなエピソードが目立つようになります。念のために書いておきますが、匈奴側から見たら漢の侵攻は侵略に他なりません。匈奴が記録を残さなかったため、どうしても漢側の視点に立ちがちですが、この点は常に留意しておかないといけないと思っています。

李陵と蘇武はこの時代の有名人なので、もう少し言葉を費やします。李陵は中島敦李陵』で知られます。李陵投降ののち、彼を讒言する佞臣どもを尻目に毅然と弁護に立ったのが、かの司馬遷でした。しかし彼の正論はかえって武帝の怒りを買うところとなり、宮刑という残酷な刑罰を下されるのです(またしても本人じゃないけど、その六…体の一部分に特徴がある)。

中島敦の名作における李陵と、そしてこの司馬遷の心理描写は絶品です。後世の人間が、歴史上の人物に仮託して想像の翼を広げるお手本のような作品だと思っています。先にリンクを貼ったのはKindle版ですが、青空文庫でも読めるのでそちらのURLも貼ります。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html

蘇武は漢王朝より匈奴使者として派遣された人物ですが、トラブルに巻き込まれ、実に十九年にわたって抑留され、匈奴の勢力圏内を転々とさせられました(これも本人じゃないけど、その四…放浪する)。この間、漢の使者の証である節旄〔せつぼう〕(毛皮の飾りのついた旗)を掲げることを止めなかったと言います。飢えたときには節旄の毛を抜いて口にしたとも伝えられます。「節を持する」という言葉は、蘇武の故事に由来します。

本人以外を条件に当てはめることが続いたので、武帝本人の事績として「泰山封禅」というのを挙げておきたいと思います(その四…放浪する)。泰山というのは、あのだだっ広い華北平原に屹立する孤立峰で、標高約1,500mと極端に高い山ではありませんが、中国では古来、聖地とされていたところです。ここに登って封禅の儀と呼ばれる天と地を祀る儀式を行うことができるのは、並の皇帝ではダメで、歴代王朝で一人か二人、王朝の最盛期を築いた聖なる皇帝にしか許されないこととされたそうです。漢王朝に先立つ秦の始皇帝が封禅を行ったときには、暴風に見舞われ、人々は「秦は天下を統べる器でないからだ」と噂したと言います。

なお最初の方で武帝を「ギリギリ『史記の時代』」と書いたのは、武帝司馬遷が同時代の人物であり、『史記』中には衛青と霍去病の伝はあるものの、武帝紀はないからです。正確には孝武本紀というタイトルの文章はありますが、中身は「封禅書」すなわち封禅の儀の詳細を記した文章のコピペなのです。本物の孝武本紀は、早くに亡佚したとも武帝自らが破棄したとも言われます。

晩年の武帝は独断癖をさらに強め、「巫蠱〔ふこ〕の獄」という大事件を招きます。これは老境の武帝に取り入った江充という人物が、皇太子と対立し、皇太子らが武帝が早く死ぬようにと巫蠱(=呪術)を行ったと讒言したという事件です。皇太子は追い詰められて反逆したものの敗れて自刃し、皇太子を生んだ皇后も死を賜りました(再び、その三…妻子を不幸にする)。後に皇太子の無実が明らかになり、江充の一族は皆殺しにされます。

「その五…口は達者」がまだ出ていませんでしたが、本人じゃなくても可ってことで、司馬遷一人の名を挙げればジャラジャラとお釣りがくると思います。

 この時代を描いた単著として、往年の中国文学の泰斗である吉川幸次郎の『漢の武帝』を、ぜひとも紹介しておきたいと思います。

漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))

漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))

 

今日では新書というと粗製乱造の気味がありますが、往年の「斯界の第一人者による一般向け書」という、何というか「古き良き時代」の匂いのようなものが感じられます。

読んでいて次のような文章に出くわすと「おおっ!」となります。

 李陵の悲劇は、近ごろ中島敦氏の「李陵」一篇に、えがきつくされて余蘊がない。かつ中島氏の文は、小説の体をとってはいるけれども、事実はほとんど「漢書〔かんじよ〕」そのままである。私が再びここで語る必要はないと思われる。

 (P187~8)

文章はとても読みやすいです。一方で、衛子夫が武帝の寵愛を受けるきっかけとなったことを示す『漢書』「外戚伝」の「軒中にて幸を得たり」という記述に関して「軒とはトイレのことである」という考証を長々とおこなう箇所があったりして(P25)、ふふっとなったりします。