しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを要求しない

相変わらず人が引くほど仏教書ばかりを読んでいる

どうも私にとって「法華経」というものが謎である。
天台・日蓮の二大宗派はじめ多くの宗門の根本経典でありながら、実際に読んでみると、何が書いてあるかよくわからない。浄土教の聖典である浄土三部経ならば、まだよくわかる。難行に就かなくても易行により成仏できることが説かれている(信じる信じないはとりあえず措くとして)。キリスト教における聖書も、まあ、わかる。
しかし法華経の場合、仏の教えによって人々が無上の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得られることが繰り返し説かれるが、じゃあその悟りというものがどういうものなのかが、わからない。それ以上に、法華経に限っては、仏の教えというものが余計にわからない。なにせ法華経においては「仏の教え」=「法華経自身」なのだ。法華経の中で、過去や現在の仏が「法華経」を説いているのだ。
ならば法華経の中で法華経自らが「法華経」に言及している部分を除いて、法華経が何を説いているかと言うと、これは以前のエントリーでも触れたとおり、「開三顕一」すなわち「伝統的仏教(いわゆる小乗仏教)も大乗仏教も、目指すところは成仏というただ一つ」と「久遠実成」すなわち「お釈迦様は無限の過去において悟りを達成し、また永劫の未来まで存在し続ける」が二大テーマである。
その二点を理解するなり信じるなりすれば、無上の悟りは得られるのだろうか?少なくとも私は悟ってないぞ!またそれで悟れそうな気もしない。
多分これは私一人の感想ではないと思う。だからこそ平田篤胤による「『法華経』は薬の効能書きばかりで、肝心の丸薬がない」という批判も出てくるのだと思う。
しかし一方で、現に日蓮宗は日本最大の信者数を持つ宗派であり、その他にも膨大な数の法華経信仰者が存在するという現実がある。
それで、書店でたまたま目にした
中村圭志『信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)
という本を読んでみた。「はじめに」には「本書は宗教書の内容を「信じる」ための本でもなく、「信じない」ための本でもありません。「信じる」と「信じない」との間に揺さぶりをかける本なのです」(p8)と書いてあるが、本文中で「日蓮菩薩」(p61)という表現があったり(日蓮宗関係者以外が日蓮に「菩薩」という尊称を用いるとは思えない)、内容的には明らかに「信じる」側の立場の人なんだと思う。それはそれで望むところである。
で、例によって私なりの乱暴な要約。まず前提として、人は文字では悟れない、本に書いてあることをいくら読んだって悟りの境地には達することができないことを確認しておこう。
本書によると、法華経を理解するキータームは「輪廻転生」と「記憶喪失」の二つなのだそうだ。
我々は永劫の過去から、転生を繰り返している。これもまた信じる信じないは別問題として、仏教というより古代以来のインド哲学の世界観としてよく知られているところだろう。
そして転生すると、普通、過去世のことはきれいさっぱり忘れてしまう。法華経の冒頭には、文殊菩薩と弥勒菩薩の問答が置かれる。文殊菩薩も弥勒菩薩もよく名を知られたメジャーな仏様なのだが、法華経においては文殊菩薩のほうが格上で、弥勒菩薩は過去世のことを忘れているのだが、より霊的なステージの高い文殊菩薩は過去世の記憶を維持している。文殊菩薩は弥勒菩薩に、過去世においても彼らがお釈迦様(の過去世)と縁を結び教えを受ける立場であったことを説明する。
このように菩薩といってもステージはさまざまで、並の人間である仏弟子と見たところあまり変わらない菩薩がいるかと思えば、霊的ステージトップクラスの観音菩薩に至っては「歴劫不思議 侍他千億仏」ということで「想像できないほど長い期間にわたって、他の千億の仏につかえ」成仏まで紙一重の段階にまで達している。
ちなみにいくらステージが高くても菩薩と如来は格が違い、如来になると、阿閦如来なら歓喜国(妙喜国)、阿弥陀如来なら極楽浄土といった具合に、宇宙を一つ作ってその主に収まってしまう(釈迦如来は我々の住む宇宙である娑婆国の主)。
法華経には他にもおびただしい数の菩薩や仏弟子が登場し、過去世におけるエピソードが語られる。本書によると、これらは法華経の読者に法華経の登場人物に感情移入させるための装置なのだそうだ。
大乗仏教というのは、出家者、在家者を問わず、一切衆生が等しく仏様になれる可能性を認めている。なんでそんなことが可能かというと、お釈迦様は無量無辺百千万億那由劫という(なにそれ?)ほとんど永劫の過去において成仏し、それ以来繰り返し教えを説いておられるので、他ならぬ我々もまた、みな過去世のいずれかにおいて直接にお釈迦様の教えを受ける身であったかも知れないというのだ。「いや、そうにちがいない」というところかな?
そして、法華経を読むことは、あるいはただ法華経のお題目を唱えるというだけでも、これはお釈迦様との宿世の因縁を確認する行為に他ならないというのだ。
過去のことばかり書いてきたが、法華経には授記といって「誰それが来世で仏になる」という預言が多数登場する。早い話が主たる仏弟子は片っ端からみな授記される。これも法華経の読者(つまり我々だ)が未来において自分も仏になれるかもしれないと感情移入させるレトリックなのだそうだ。
まとめると、現世においては性別も職業も人さまざまだが、出家修行ができる人間は出家修行すればよく、出家修行できない人間は法華経を読めばよく、法華経を読むこともできない人間はお題目を唱えるだけでもよく、これらはいずれも過去永劫からのお釈迦様との関わりを再確認する行為に他ならず、未来においては仏となる可能性を保障するものである、といったところかな?(だからこそ「久遠実成」つまりお釈迦様の存在は永遠だ、というドグマが重要になる)
なるほど!こう説明してもらえると、わかったような気にならないでもない。あとは信じるか信じないかの問題だろう。もし私が法華信仰の家に生まれていたら、これで堅信、すなわち信仰の再確認ということになっていたかも知れない。
で、新たな疑問というか不満なのだが、法華経と浄土三部経とりわけ無量寿経は、私の見るところ、全然矛盾してないというかむしろ相補的なところばかりが印象に残る。
例えばさっきもちょっと引用しかけた観世音菩薩普門品(いわゆる観音経)の一説「弘誓深如海 歴劫不思議 侍他千億仏 発大清浄願」は、私が個人的には無量寿経の中でもとりわけ好きな第二十二願還相回向願の実践と見ることができると思う。観音さまは、衆生済度のため、わざと如来にならないのだ。あるいは阿弥陀如来は法華経に二度(サンスクリット原典では三度)登場するけど、そのうち二度目の薬王菩薩本事品には、女性が法華経に定められた修行をすると阿弥陀如来の安楽世界(極楽浄土)に往生できることが書かれているが、これは無量寿経の第三十五願女人成仏願そのものだよね?いらんことだが、私はこの願を「性同一性障害に苦しむ者が、転生したときに再び望まぬ性の体を受けることがない」と勝手に解釈している。多分どこの宗門でもそういう解釈はおこなっていないと思うが。
周知の通り、日蓮宗は浄土教に対する批判からスタートした。しかるに日蓮宗の採用した「(法華経の)選択」と「(唱題という)易行」は、彼が批判した浄土教の方法に瓜二つである(「選択」〔せんじゃく・せんちゃく〕、「易行」は浄土教用語だけど)。こういうことは歴史上しばしばあることのようで、例えばショーペンハウエルだったかキルケゴールだったかはヘーゲルを強烈に批判したが、彼らの唱える哲学はヘーゲル哲学の地平を一歩も越えるものではなかったという批評をどこかで読んだ記憶がある。
浄土宗と日蓮宗が分かれた天台宗では、今でも「朝題目夕念仏」ということで法華経信仰と浄土信仰を並存させているという。宗教にある程度の閉鎖性・排他性は付きものなのかもしれないが、こういう柔軟性はもっとあってもいいように思う。
追記:(9/6)
授記について、もう一言。法華経の立場からすると、舎利弗ら仏弟子は、もともと伝統仏教(いわゆる小乗)の修行を極めた阿羅漢であるがゆえに本来は成仏が望めない立場であったところへ、お釈迦様から「開三顕一」つまり小乗の修行者でも大乗でも等しく成仏できることを告げられたがゆえに、狂喜するのである。
この「小乗の修行者は阿羅漢止まりで成仏できない」という理屈は、いかにも大乗側の「藁人形叩き」のような気がしないでもないが、それはひとまず措こう。
『信じない人のための…』によると、本来、成仏を諦めていた仏弟子たちが次々と成仏を予言されることは、法華経の読者に「ひょっとしたら自分も成仏できるかも知れない」と感情移入させる装置なのだという。
つまり仏弟子たちは「レベルが高すぎて」成仏できないと思っていたのに対し、一般の法華経の読者は、まあ普通は「レベルが低すぎて」成仏ができないと思っている人たちなわけだ。少なくとも最低一人、私はそうだ。とんでもなく偉い高僧様でも法華経を読むだろうから例外はいるだろうけど。
これは歎異抄の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という超有名なフレーズを、強く想起させないか?
とまあ私の「法華と浄土はもともと対立的ではなく相補的」という勝手な解釈への、補強材料の追加でありました。

信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)

信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)