前回のエントリー で述べた「二分法」に関連する、まあネタ記事です。結論を先取りして書くと、次の二点だ。「我々が二分法を用いるとき、すでに前提として二分法がいくつも用いられており、そしてその前提となる二分法の存在はややもするとと見逃されがちなんじゃないか?」ということと、もう一つは「ある人々が自明と思っている二分法が、他の人にとってはぜんぜん自明じゃないということがよくあるんじゃないか?」である。
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調べたら4年も前のことになってしまったが、音楽評論家の吉田秀和氏が亡くなったとき、追悼記事のどれかで、氏が「仏独等距離主義」なるものを採っていたというのを読んだ記憶が、頭の隅に残っていた。多分その記事を、たまたま何かのはずみで発掘した。
一部を引用。
■「仏独等距離」で
森鴎外や西田幾多郎ならドイツ語。永井荷風や小林秀雄ならフランス語。夏目漱石だと英語。彼らは特定のヨーロッパ語のどれかひとつに深入りしながら自らの世界観を鍛えた。が、吉田は10代の頃からかなり自覚的に仏独等距離外交を展開した。両方を深く学び、深く依拠した。吉田が現代日本の突出した文人になった大きな理由だろう。
私はクラシック音楽のことはわからないが、いろんなジャンルで「この人は学生時代かどっかでフランス語を勉強したことがあるんだろうな」「この人はドイツ語だな」とわかる(わかったつもりになる)ことが、しばしばあった。
このエントリーでは、仮に前者を「仏語人」、後者を「独語人」と読んでみよう。フランス語ができるとかドイツ語ができるという意味じゃない(できるかも知れないけど)。単に彼らの創作物に、とりわけ固有名詞に、フランス語っぽい響きがあるものが多いかドイツ語っぽいのが多いかという程度の根拠による区別である。
例えばアニメでは富野由悠季御大が「仏語人」だ。『ガンダム』のシャア・アズナブルなんてのが典型だ。「シャア」はフランス語で「猫」、アズナブルはそういう名前の高名なシャンソン歌手がいる。私はフランス語を本格的に学んだ経験はないが、「アー・バオア・クー」なんてすっごくフランス語っぽいと思うんですが、どうでしょう?
一方その弟子筋(?)の庵野秀明カントクは「独語人」であろう。なんか敬称が皮肉っぽいですねすいません意味はないですやめます。『エヴァンゲリオン』にはネルフ(ドイツ語で「神経」)、ゲヒルン(同「脳」)、ゼーレ(同「魂」)なんて組織名が出てくる。でもアスカ・ラングレーは全然ゲルマンっぽくないな。まあいいや。
小説家には「独語人」が多いような気がする。すぐに思いついたのは赤川次郎氏とか田中芳樹氏とかである。田中氏の『銀河英雄伝説』、とりわけ帝国側の人物名は、ラインハルト、キルヒアイスなどゲルマン系ばっかりで「他の民族はどうなったの?」と心配になるほどだ。
一方「仏語人」は、見つけるのに少し時間がかかった。惜しくも若くして亡くなった殊能将之氏は「仏語人」だったと思う。
殊能氏の『鏡の中は日曜日』のブックデザインに、ちょっと文句がある。 あれ? 「はてなブログ」って、でかい書影貼れなかったっけ?
貼れるやん。 “Im Spiegel ist Sonntag” と書いてある。これはタイトルのドイツ語訳だ。しかしこの小説中にはフランス語の詩の原文が、ばんばん出てくる。トリックにも関係がある。表紙にドイツ語はあかんやろ…
と考えつつ、ふと、このドイツ語タイトルを表紙に掲げた編集者かブックデザイナーの頭の中には、「フランス語とドイツ語」ではなく、「英語と英語以外の外国語」という二分法が存在したのではなかろうか、と思い当たった。単なる想像で根拠はないです。
かつて大学における第二外国語の履修者数はドイツ語とフランス語が一、二位を占めていたが、確か今は中国語が一位のはずだ。第二外国語の履修を必修としない大学も増えていると聞く。「仏語人」と「独語人」という分類や、「仏独等距離主義」というのが、何のことかわからない人のほうが多数派であってもおかしくない。
ブログタイトルに書いた通り、今回の「仏語人」「独語人」というのはただのお遊びなんだけど、二分法を不用意に用いることによって、何の分析をやっているかわからなくなることや、分析が全く無意味になることは、現実にありうるんじゃないかとも考えている。実はその例も思いついていたのだが、一つのエントリーには盛り込み切れなかったので、次回以降に書くことにします。
あと念のために書いておきますが、「知的」という語は「手や体を動かすのではなく頭の中だけを使う」という意味であって、知能の優劣のようなものを意図するつもりは一切ありません。
追記:
話をさらにとっ散らかすだけの続編を書きました。
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