しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることにより人権を守ろうとする試みは歴史的に全て失敗した

一坂太郎『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』(中公新書)

長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)

長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)

上関事件(p39〜)というのがあって、攘夷を叫ぶ山本誠一郎と水井精一という長州藩の下級武士が、外国人と密貿易をしていたという理由で薩摩藩の御用船を襲って沈め船主を殺害し自分たちも切腹した。山本と水井は維新後「志士」として靖国神社に合祀される。
ところが事件の真相は、いわゆる「八月十八日の政変」後、薩摩に恨みを抱いた長州藩関係者の暴走によるもので、薩摩藩との関係悪化を恐れた久坂玄瑞ら当時の長州藩の有力者が「密貿易に対する義憤」に問題をすり替え藩としての責任を免れようとしたものだという。
山本・水井はもともと事件とは関係なく、「国家(藩)の為めに」(p43)と言って罪を被せられた。水井は死を受け入れたが、山本は納得せず、久坂一派の野村という藩士に斬殺され自殺に偽装されたのだという。
以下は、この本の著者ではなく私の意見です。靖国の「英霊」の正体とは、往々にしてこのように権力者の都合によって使い捨てられた無名の人間たちである。恨みを呑んで死んだ人間を「神」に祀り上げる例は、靖国に限らず菅原道真天満宮はじめ本朝では枚挙にいとまがない。と言うより神道というものの一面の本質のようですらある。時事問題にからめて言えば、私は政治家の靖国参拝に賛成か反対かと問われれば反対であると答えるしかない。だがその理由は「靖国軍国主義の象徴」だからではなく、政治家が靖国に参拝し続けるということは、いくら感傷のオブラートに包もうが「権力者が権力を持たざるものを自分の都合で使い捨てる」という前近代的な政治手法をこれからも使い続けるぞという宣言としか見えぬからである。