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武者小路実篤『愛と死』(新潮文庫)

愛と死 (新潮文庫)

愛と死 (新潮文庫)

陽だまりの彼女 (新潮文庫)』を読んでいて、少し前に読んだこの本のことを、強烈に思い出した。趣向はぜんぜん違うんだけどね。
確信犯的な乱読だから何でも読む。あえてジャンルにこだわらずに何でも読もうと心がけている。
う〜ん、古いわ。古色蒼然という感想が否めない。
まずタイトルがネタバレである。「こうなるだろうな」と思ったことが、思った通りのタイミングで起こる。中盤以降で、主人公にちょっと耳寄りな話が舞い込むが、「受けるな〜っ!この話は絶対に受けるな〜っ!」と、脳内で絶叫してしまったぞ。
それから主人公カップルの会話の不自然さと言ったら…本書の初版は1939(昭和14)年だそうだが、戦前のカップルは本当にこんな会話を交わしていたのだろうか?家父長制を道徳的善とする倫理観を色濃く反映したような…たとえば主人公カップルは、やたらと彼らの間に将来生まれる子ども達のことを夢想した話をするのだが、未婚のカップルって、そんな話で盛り上がるものなのか?「産めよ殖やせよ」を「善」とした当時の価値観の反映なのだろうか。フィクションの主人公というのは、必ずどこかしら「道徳的善」を期待されるものだけど。
そして「道徳的善」ほど時代によって移ろいやすいものはないのだ。『陽だまりの彼女』では主人公カップルの会話の中に、必ずお互いに対する感謝とか尊敬とか愛情とかが、明確な言葉として語られるのが好ましく感じられると以前のエントリーに書いたけど、それは21世紀日本社会において「道徳的善」として期待される事項なのかも知れない。
はっとするような部分は、むしろ細部に多かった。例えば冒頭のほうで、主人公が内面のプライドの高さと実社会における無力のギャップに苦悩し、自分にできることは、良い仕事をすることだけだと思った、しかし実はそれこそが最も難事であることに気づくには、当時の自分はあまりにも未熟すぎた、という意味の告白をする部分がある。
全力でシンパシーを表したい。
また主人公がパリに外遊することになったとき、先輩格の作家が送別会で、自分は東京帝大文科を出ているが、帝大で学んだもっとも価値があったのは、帝大というものが全く恐れるに足りないのを知ったことだった、現代(当時)における世界の文芸の中心はフランスであるが、主人公がパリに行くことによってフランスが全く恐れるに足りないものであることを学ぶことを期待する、という意味の送辞を送る。
これもわかるわ〜、と言ったら僭越かな?
このような文章をものしてきたからこそ、武者小路実篤の名は記憶され続けているのかも知れない。
陽だまりの彼女 (新潮文庫)

陽だまりの彼女 (新潮文庫)