
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/11/08
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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2年ほど前に出た早々に購入して積ん読してあった本だが読んでみた。哲学者の名前が、デカルト、カント、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガー、メルロ=ポンティなどビッグネームから私なんぞは聞いたこともないような人まで、出るわ出るわ、思いっきり並んでいる。中島氏は一般向けの読み物もたくさん出していて、言っちゃ悪いが少々読者に舐められている部分なきにしもあらずだから、それに反発したのかな?「あとがき」にはこう書いてある。
またアノ中島が自分の秘密を告白するのかヘキエキだ、と眉を顰(ひそ)めながら本書を手にしたあなた、残念でした。これは『「私」の秘密』と題していても、中島義道のすさんだ人生にこびりついている秘密ではなく、「私というあり方」一般の秘密なのです。
(p186)
哲学者が「自分自身」をいかに考えてきたか、中島氏が「自分自身」という問題をどう料理しているか、手軽な案内書だとは思う。
読んでて「おや?」と思ったのは、視覚を論じるところで網膜とか視神経とか大脳の視覚野とか、自然科学的な知見をあっさりと使っている箇所がある(p50〜51)。いいのか?いや、どこかで、哲学者は自然科学的な知見を採用するときにはいつもかなり慎重である、というような意味の文章を読んだ記憶があるので。まあそれはそれでいいとして、ならば想起を論じる箇所(p57〜)でも、記憶に関する脳科学の最新の知見(たとえば池谷裕二『進化しすぎた脳』巻末の「付論」には、行列演算を用いたみごとなモデルが示されている)を使っちゃえばいいのに、と思ってしまう。
なんというか「自分自身」とは、自然科学的に捕らえようとすると、いかにもそのアプローチが適当なようではなく、ほかの例えば哲学的なアプローチこそがふさわしく思え、かと言って哲学的に捕らえようとすると、今度は自然科学的な手法を援用しないではすまないように思えてくる、不思議な相手である。
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