- 作者: カント,Immanuel Kant,篠田英雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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そしてなるほどこれらの昏迷と矛盾とから、どこかに隠れた謬見が根底に潜んでいるに違いないことを推量しはするものの、しかしこれらを発見することができないのである。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超出しているので、経験による吟味をもはや承認しないからである。この果てしない争いを展開する競技場が即ち形而上学*1と名づけられているところのものである。
(篠田英雄訳『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』p13〜14)
つまりカントは、どうやらここでは形而上学のことを言っているらしいのだ。「宗教」ではない。「科学に対する信念」でもない。前回は言い出さなかったけど、例えば他にも「国家や国王の権威に対する服従」なんてのもあてはまりそうに思ったのだが、それでもない。
だが、どうもすっきりしない。
形而上学というのが、これまでのどの部分を受けるのかが、はっきりしないからである。
形而上学という言葉は、直接的には「競技場」という比喩を受けて初出する。だがこの「競技場」とは何を示しているのであろうか?
形而上学≒競技場=???
さっそく、J. M. D. Meiklejohn(訳)"Critique of Pure Reason (Dover Philosophical Classics)"を参照してみる。
確認したかったのはただ一点、「原則」が複数形かどうかだけである。"principles"。複数形だ!
つまり、経験では実証できない「原則」どうしが相争うというのである。それが形而上学だと言っているようだ。
Critique of Pure Reason (Dover Philosophical Classics)
- 作者: Immanuel Kant
- 出版社/メーカー: Dover Publications
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*1:原文には傍点あり