- 作者: 中村元
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/06/10
- メディア: 文庫
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なぜあえてエントリーにするかというと、6/20のエントリーに関連して「仏教の全体像を捉えることの難しさ」を書こうと思い、例のひとつとして思いついたのがナーガールジュナ=龍樹だったが、確認のため蔵書を確認したところ、例として書こうと思ったことが全部本書に含まれていることに気づいたからである。通読できなかった理由は、後述もするが、あまりにも難解だったからだ。
ナーガールジュナ(ナーガ=竜、アルジュナ=木だから漢訳して龍樹)というのは西暦二〜三世紀に活躍したインドの仏教者。日本では「八宗の祖」と呼ばれたり、浄土真宗では「七高僧」の一人に数えられたりしている。
本書I章には『龍樹菩薩伝』として、次のような神話的エピソードが紹介されている。
龍樹は出家前に、友人3人とともに透明人間になるバラモンの仙術を会得した。その仙術を用いて、国王の後宮に忍び込み怪しからぬことをした。後宮の女官に妊娠するものが相次いだため、国王は宮中に砂を撒かせ、武人達に命じて足跡がついたところに闇雲に刀を振わせたため、3人の友人は落命してしまった。身をひそませただ一人助かった龍樹は、これをきっかけに仏道に帰依した…
なんでこの話が印象に残っているかというと、東本願寺の売店で立ち読みした子ども向けの七高僧伝の本にも書かれていたからだ。他にも神話的エピソードは多々、伝わっている。
次に本書II章によると、主著『中論』では次のような議論が展開されているそうだ。
「去る」という行為の実在性を、次のようなロジックによって否定する。
まず「すでに去った」ものは去らない。そこにないからだ。過去形だな。
「未だ去らない」ものは去らない。それもそうだろう。未来形。
では現在進行形、「去りつつあるもの」は去るのか?
龍樹は「去りつつあるもの」を「去りつつあるもの」(実体)と「去りつつあるはたらき」(作用)に分解する。
ここからがとても難解で、私が要約するとうさんくさくなってしまうのだが、正確さには目をつむってわかりやすさを旨として再構成すると、次のようなことらしい。
もし「去りつつあるもの」に「去る」が含まれないとしたら、「去りつつあるもの」は去らないのだから、「去る」はない。
もし「去りつつあるもの」に「去る」が含まれるとしたら、「去りつつあるもの」にも「去りつつあるはたらき」にも「去る」が含まれることになり、「去る」が4つになってしまう。以下、同様の手順により無限後退に陥る。
同様のロジックで「始めること」「とどまること」の実在性を次々と否定しているんだそうだ(いや伝聞形にしなくても『中論』の現代語訳は本書III章に全文が収録されているんだが、私は挫折中。少しずつ再チャレンジしよう)。
なんでこのような議論をしているかというと、著者の研究によると、これは「有部」と呼ばれる古代仏教の部派を論破するためなんだそうだ。「有部」というのは、その名の通り実在論を主張したグループらしい。「龍樹大士 出於世 悉能摧破 有無見」(=龍樹菩薩が世に出でて、有無の見解を打ち破り…正信偈)。
そして本書III章には『十住毘婆沙論』の一部が訳出されている。
仏法には無量の門がある。世間の道にも、行きがたい〔困難な〕道もあるが、また行きやすい道もある。陸の道を歩いていくのは苦しいが、水路で船に乗って行くのは楽しいようなものである。菩薩(求道者)の〔実践する〕道もまたそのようなものである。あるいは勤め実行して精励努力する人々もいる。あるいは信仰というてだて(方法)にたよってやさしい修行をして、すみやかに不退転の境地に達する人々もいる。
(本書p413)
今日でいうなら、自動車や鉄道を利用するようなものだろう。本願寺出版社の『浄土真宗聖典 七祖篇』にも、同じ個所の漢文書き下し文が収録されている。この一文によってナーガールジュナは浄土教の先駆者とされ、浄土真宗七高僧の筆頭に数えられている。「顕示難行 陸路苦 信楽易行 水道楽」(正信偈)。
ただし本書によると、『十住毘婆沙論』のナーガールジュナと『中論』のナーガールジュナは同名異人であるとの説が有力とのこと。さもありなん。でも一人の人間の中に、これくらい広いスペクトルの思想が同居していることがあっても、けっして不思議じゃないとも思うんだけどね。唐突だが徳間書店の創業者=徳間康快のことを思い出す。『週刊金曜日』に連載中の佐高信『飲水思源 文化の仕掛人〔プロデューサー〕徳間康快』がけっこう面白い。以前にも書いたが『アサヒ芸能』とスタジオジブリを作ったのがこの同一人物だなんて、にわかには信じがたいじゃない!
話がずれた。ナーガールジュナという人物一人をとってもこれだけのレンジの広がりがあるのだから、仏教の全体像が容易につかめなくても当たり前と言えば当たり前なのだろう。ただそのワケノワカラナサを、否定の理由とするのではなく楽しんでしまおうというのが、目下の私の立場である。『金剛般若経』という仏典に多用されるロジックをもじって仏教自身に適用すれば、つぎのようになる「釈尊「スブーティ(須菩提=釈尊の高弟の一人)よ、どう思うか?はたして仏教というものがあると思うのか?」スブーティ「師よ。仏教は確かにあります!それはなぜかというと、仏教というものがあるわけではないからです。それだからこそ仏教はあるのです!」」本書の著者が訳者の一人として名を連ねる『般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)』の文章を借用させてもらいました。m(_ _)m
- 作者: 中村元,紀野一義
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1960/07/25
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