しいたげられたしいたけ

災害時のデマ、絶対ダメ!

法華経における「釈迦出世の本懐」を一言で表すとしたら「衆生を悟りに導く」しかないのだけど…

今回は批判から入ります。森下礼(id:iirei)さんの、この記事ですが…

iirei.hatenablog.com

一部、引用します。

なお、法華経に言う「釈迦の出世の本懐」をストレートに言えば「殺すため」となるが≪後略≫

『法華経』は岩波から文庫3分冊、中公から2分冊で現代語訳が出版されており、私は岩波のほうを何度か読み返していますが、「釈迦出世の本懐が殺すこと」と解釈できるようなことが書いてあった部分は思い出せませんでした。

そこでコメント欄にその旨を書いたところ…

 私と法華経の接点は一つだけです。知人のS価学会員の人にもらった『教学の基礎』。いかにも法華経についてエッセンスが語られているだろうと期待して読んだところ、地湧の菩薩などの意味不明な記述の挙句「出世の本懐」は・・・「わからない」という結論に行きつき、わたしは脱力感を味わいました。長々しい文章の果てに。同じようなことというのに、達磨大師は「不識」の2文字で済ませています。これ以後、私は法華経は読む気が失せました。


「殺す」云々の言葉は、私の日記のなかで書き付けたことがもとになっていますので、その見解を裏付ける文献はないと思います。私なりに釈迦の内面を慮った言葉です。

とのお返事をいただきました。

回答をいただいたことには感謝しますが、これはつまり『法華経』を読まずに『法華経』を批判したということで、平たく言えばデマということになります。

森下 さんのエントリーが「ネタ」であることは明白で、「ネタにマジレス」のそしりを受けるかも知れません。しかし、ネットには根拠を全く欠く誹謗中傷など悪質なデマが氾濫しており、また他の方のコメントを読むと、森下 さんの言説を真に受けている人もいるようであることを見るにつけ、問題のある行為と言わざるを得ません。

森下 さんの最近の他の記事には、マスメディアを批判するのに「統合失調症」という語を使うものがあったり(私の相互登録さんにも統合失調症で苦しんでいる人が何人かいます)、他者への配慮に欠けるというか「あれ、この人こんなことを言う人だったかな?」と感じることがあります。一言苦言を述べておきたいと思います。

 

とは言え『法華経』にはわかりにくい構造があることは確かで、弊ブログでは『法華経』をときどき話題に取り上げていますが、このさい私なりに整理しておきたいと考えました。

法華経における「釈迦出世の本懐」というのは、“法華経に記述されたブッダのこの世に出現した目的” の意で、本当はこの語の用法にも思うところはあるのですが、今回は省略します。

もし法華経における釈迦出世の本懐を一言で表すとしたら、今回のブログタイトルに掲げた通り「衆生をことごとく悟りに導くこと」以外にないのです。「だが、どうやって?」というのが問題なのです。 

大乗仏典〈4〉法華経I (1) (中公文庫)

大乗仏典〈4〉法華経I (1) (中公文庫)

 
法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)

法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)

 

法華経とは、ごく大雑把に言って、以下のような物語です。

釈尊が最晩年、クシナーラーで入滅する旅に出る直前に、本拠地である霊鷲山で説法を行いました。最終講義のようなもので、この場において十大弟子はじめ縁のある人々に授記が与えられます。授記とは将来世において仏になるという予言です。卒業証書授与のようなものでしょう。

そこへ多宝如来という過去仏が、高さ500ヨージャナ(由旬)という巨大な建物とも乗物ともつかぬ宝塔とともに現れます。500ヨージャナは岩波文庫『法華経(下)』P381の注釈によると諸説あるとしながら約3,650kmとのことで、地球の半径約6,371kmの約57%に相当するというべらぼうさです(見宝塔品第十一)。

釈尊と弟子たちは、招かれてこの宝塔の中に入ります。すると宝塔は虚空へと浮上し、さらに深海の底で竜王の娘を成仏させた菩薩が現れたり(提婆品第十二)、宇宙の彼方からウルトラマンより巨大な菩薩が表敬訪問に来たり(妙音菩薩本第二十四)、森下 さんのコメントにあるように大地を割って無量千万億(何千兆?)という菩薩が出現したり(従地涌出品第十五)と、最近の人気増田「巨大ロボが出ないSFアニメが見たい」にあやかれば、さしずめヴィラン(悪役)が出ない SF、戦闘シーンがない SF の様相です。

 

先学たちの努力のおかげで現代語訳は読みやすく、また読んでいて楽しいのですが、さてそれで悟りが得られるかとなると、疑問としか言いようがありません。前半の仏弟子たちが次々に授記を受ける部分では、授記に先立って「法華七喩」と呼ばれる悟りの様相を説く喩えが、順次弟子たちに説法されます。有名な「火宅の喩え(google:三車火宅の譬え)」は、その一つです(譬喩品第三)。また後半では、具体的な修行の方法として法華経自体の「受持、読誦、解説、書写」すなわち暗記、黙読、音読、他人に説明すること、書き写しを、各自の力に応じて(「随力」)実践すべきことが、繰り返し勧められます。

話は中断しますが、この「力に応じて」というのがミソで、力がある人は法華経全文を暗記…等せねばならないのですが、力がない人は「一偈」すなわち一句でもよいとされます。ここから「南無妙法蓮華経」というお題目を唱える功徳が導き出されます。浄土教の念仏もそうですが、このような仏教のローエンドに基準を合わせようという姿勢は、個人的には好もしいものを感じます。

話を戻して、しかしその「受持、読誦、解説、書写」によって、本当に悟りが得られるものでしょうか? 私は宗旨違いの真宗門徒の出ですが、なぜか法華経の一部である「観音経」(観世音菩薩普門品第二十五中の偈文)が暗唱できます。だけど当然ながら(?)悟りを開いていません。

江戸時代の儒学者である平田篤胤は、法華経を読んだ感想として「薬の効能書きだけで肝心の薬がない」と述べたそうです。効能書きというのは悟りの説明、薬というのは悟りそのもののことでしょう。私の読んだ解説書である菅野博史『法華経入門』(岩波新書) や中村圭志『信じない人のための「法華経」講座 』(文春新書) は、それぞれ紙幅を費やして反論を試みてはいるのですが(『法華経入門』P75~、『信じない人のための…』P135~)、けだし「痛いところを突かれた」というところかも知れません。 

法華経入門 (岩波新書)

法華経入門 (岩波新書)

 
信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)

信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)

 

 

私なりの理解による「法華経における悟りへの道筋」は、過去記事でも少し述べたことがありますが、同経典中屈指の人気エピソードである「常不軽菩薩品第二十」を踏まえて、改めて書いてみたいと思います。

常不軽菩薩というのは、遥かなる過去世に現れた修行者です。彼は目に一丁字なき無学の僧だったのですが、街角に立ち道行く僧俗男女の誰彼を問わず「私はあなたがたを深く尊敬します。なぜならあなたがたは菩薩道を修行して仏になられる方なのです(我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏) 」と礼拝するという奇妙な修行を実践していました。それゆえ迫害されたりいじめられたりしたのですが、年老いて寿命が終わろうとする時、威音王仏という過去仏が虚空より二十千万億偈(二京偈?)もの法華経を説法するのを耳にし、それをことごとく受持して、ついに悟りの境地に達したということです。なお常不軽菩薩は釈尊自身の過去世の一つとされます。

 

この物語から、わかることがいくつかあります。まず法華経中に現れる「法華経」というのが、法華経自体と等しいとは限らないということです。ややこしいので本記事中では便宜的に、中公文庫で二分冊、岩波文庫で三分冊の法華経そのものを「法華経のテキスト」、「法華経のテキスト」中で言及される法華経を「経典中の法華経」と呼んで区別することにします。法華経のテキストは、鳩摩羅什による漢訳白文で約6万9千文字と言われ、偈という単位が漢字何文字に相当するかはわかりませんが常不軽菩薩が聞いた二十千万億偈の経典中の法華経と別物なのは明らかです。

経典中の法華経は、修行の方法として「受持、読誦、解説、書写」の対象とする場合には法華経のテキストと同一視するしかないですが、それ以外の場合には、仏や菩薩のことば・説法一般と広く解釈した方が、腑に落ちることが多いように思われます。

もう一つは、仏や菩薩のことば・説法を聴き続けることによってであれば、人は悟りの境地に達することができるということです。この常不軽菩薩のように。

 

法華経のセントラルドグマ(中心教義)である「如来寿量品第十六」においては、釈尊が悟りを開いたのは五十億塵点劫という遥かなる過去世においてであったことが明かされます。それ以来、釈尊は法華経(経典中の法華経です)を説いて人々を教化してきたというのです。それがさきの無量千万億の地涌の菩薩の正体です。

人々を教導しようとするのは、釈尊だけではありません。「常不軽菩薩品」より一般に知名度が高い「観世音菩薩普門品第二十五」によれば、観音菩薩は声聞、独覚、梵王、帝釈から人、非人まで相手の能力や感性に応じて三十三の変化を為し、人々を教化するとしています(三十三観音の由来)。「観世音菩薩普門品」より一般への知名度は落ちますが「妙音菩薩品第二十四」においても、妙音菩薩が三十四の変化を為して人々を教化することが語られます。観音様より変化数が一つ多いのに知名度が低いのは気の毒です。

 

私は宗旨が違うので間違ったことを言っているかも知れませんが、法華経を根本経典とする諸宗では「仏縁」ということを重視するそうです。キリスト教の神は万能ですが、仏教では「仏と出会わなかった者を救うことはできない(縁なき衆生は度し難し)」と言います。法華経を各自の能力に応じて受持、読誦、解説、書写すること、なんならお題目だけでも唱えることは、久遠常住の仏さまとご縁で結ばれていることを確認するよすがなのです。

 

ひょっとしたらそばにいる人、袖すり合う人が、釈尊や菩薩でないとも限らないのです。ごくごく噛み砕いて言えば「人との出会いを大事にしよう」「人のことばに耳をよく傾けよう」という平凡なことこそが、法華経の究極の教えかも知れません。

 

お題目と念仏は「易行」という点で相似ていますが、浄土教の中心教義の一つに「還相回向」というのがあります。極楽浄土は一言で言って、ほぼほぼどんな願いでも叶うところです。しかし他人の運命を左右する願いは叶えられません。極楽往生を遂げた者の行く末は二つあり、一つは永遠にして完全な心の平安の境地(涅槃寂静)を目指します。もう一つは、かつて縁のあった人々と再会し共に極楽の門をくぐるため、娑婆世界に立ち戻ることです。これが還相回向で、「無量寿経」の弥陀四十八願中第二十二願が典拠です。法華と浄土は歴史的に非常に仲が悪かったことが有名ですが、私見によるとさまざまな共通点が目立って見えます。

 

私は釈尊でも菩薩でもないので、最後にまたちょっと憎まれ口を叩きます。リアルで出会う僧職者の不勉強ぶりには、目を覆う感があります。

去年、実際に経験した話です。親戚筋の法事に出席した際、法要後にお坊さんが法話を始めました。ここのお坊さんはわりと法話をする人で、珍しいなと思っていたのですが、「阿弥陀経」の経訳者が「西遊記」でおなじみの三蔵法師だなどと言ったため、内心大いにずっこけました。阿弥陀経の訳者は三蔵は三蔵でも鳩摩羅什で玄奘とは別人です。三蔵法師というのは経・律・論に通じた高僧に対する敬称で、玄奘一人ではありません。

それでもこのお坊さんは法話をするだけマシな方で、実家のご縁さん始め他の場所で出会うお坊さんたちは、お定まりのお経を読むだけでそもそも法話をしようというそぶりさえ見せません。

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