…と感じることがある。
以前、「蛙鳴蝉噪〔あめいせんそう〕のカエル像」というのをネタにしたことがある。
文人墨客たちの「我々の議論は、カエルやセミの鳴き声のように、騒がしいだけで意味のないものだ」という卑下の言葉を像にしたものだそうだ。なんだかそれがとても粋だと感じ、エントリーに仕立ててしまった。
ちょっとだけ弁護を試みると、文人墨客たちの議論は今でいう「言語化」であって、一般の人々にも彼らの開発した「言葉」という道具を授けてくれ、我々も無自覚のうちにその恩恵に大いにあずかっているはずである。
たまにネタにする「ケーキの切れない非行少年たち」に対する認知言語療法は、その精華と言うべきものであろうし、もっと目立つものとして近年、短期間に驚くべき爆発的発展と実用化を遂げたAIによる自然言語処理は、そのバックグラウンドに必ずや言語学者たちの基礎研究があるに違いなく、その系譜をもっと知りたいと思っている。
シーライオニングみたいな唾棄すべきムダな議論、議論のための議論もあるけどな、もちろん。
今回ネタにするのは、朝日新聞2025年6月28日付朝刊の書評欄の、この記事である。web版のブログカードがあるので貼る。
朝日の書評には、毎週必ず一冊は「読みたい」という読書欲をそそるものがあるのだが、今週はこの記事の…
辰巳浜子『料理歳時記』(中公文庫) を紹介するくだりに、心惹かれる文章があった。1973(S48)年初版のロングセラーだそうだ。関係個所を、ちょっと長めに引用する。
料理とは何か、著者がタイトルで示すように、それは「歳時記」である。「絵心も歌心もない」からその代わりに「花より団子」を実践するだけと謙遜しつつ、春夏秋冬の自然を味わう方法が綴られる。言葉遣いは生き生きとしてユーモラスで温かく、料理を介して人間が自然といかに親しく交流しうるかが示される。往時の「主婦の仕事」の集大成であり、その理想型の表現であろう。頁(ページ)をめくれば、自分の祖母の台所仕事の思い出がちらちらと蘇(よみがえ)る。
このうち特に "「絵心も歌心もない」からその代わりに「花より団子」を実践するだけと謙遜しつつ" という部分が、とてもいいと思った! すごくカッコいいと思った。そう思いません? (誰に訊く?
なんでいいと思ったのか、言語化を試みてもいいが、言葉にすると蜃気楼のように本質にするりと逃げられてしまうような気が強くするので、今はやめておく。さっきの「言語化大事」と言ってることが矛盾しているようにも思うが、気にしないことにする。
あとで何か思いついたら、追記するかも知れない。
でもいいでしょ。そう思いません? (くどい
追記:
拙いながら、言語化を試みる。あえて、である。
我々は、あらゆる文学や芸術を理解できるとは限らない。それらは時として、とても難解である。
多くの人々にとって、食事は文学や芸術ほど難解ではない。逆に言うと、我々は文学や芸術を、食事を楽しむほどには楽しめないことを認識しており、少なからぬ人々はそれを密かに恥じている。
そこへ「謙遜」という形をとった、かような言葉が訪れると、内心かような羞恥を抱いている人々は、ほっとし安心し、著者のユーモアに微笑みを漏らすのである。
うーん、やっぱり文字にすると興ざめかな。何よりとても平凡なことを言ってしまったという後悔に襲われる。
平凡なら平凡で、「誰もが抱いているかも知れぬ劣等感に、謙遜の衣をかぶった指摘をぶつける」というのが「ユーモアの定型」として使えないか、という考えも浮かぶが、それはよほど状況とタイミングを見極めることに長けた、手練れの書き手でないと使いこなせぬ技であろうという気もする。
追記おわり
まだ読んでない本をエントリーにして「読書」カテゴリーをつけるのはどうなのという気がしないでもないが、以前にもそういうことをやったことがあるはずだし、「あとで読む」ということで勘弁してもらおう。朝日に限らず書評を読んで、「絶対読む」と思って積ん読している本が膨大な量に及ぶことは、内緒である。