ネットでのムチャ振りに応答、反応していただいたお礼が、もう一件あります。ただし舞台が「はてな」ではなく twitter 上であったり、「描いて/書いて」もらったのではなく「教えてもらった」であるなど、ちょっと性質が違うかなと思ったので、別記事にしました。
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朝日新聞デジタルの、この記事を読んで、「これはいけないことだ」ということを表現するための言葉があったことを思い出しました。しかし、その言葉自体を、どうしても思い出すことができませんでした。
Twitter 上で、くたびれはてこ @kutabirehateko さんが、その言葉を使っていたことを思い出しました。「はてな」で人気ブログ「はてこはときどき外に出る」を開設している方ですが、現在は twitter に主な活動の場を移しています。確か、日本人がチマチョゴリ、チャイナドレス、アオザイなど他民族の伝統衣装を着ることが適切かどうかを論じたツイートだったように記憶しています(間違っていたらすみません)。
ところが私は過去ツイートの検索がうまくできません。そこで不躾ながら、次のようなツイートを行いました。
呼んでゴメン! こういうのがダメだってのを くたびれはてこ @kutabirehateko さんのツイートで読んだんだが、名称があったはず。それを思い出せない。過去ツイ検索試みたけど探せなかった。 / “豪右翼政党の党首、ブル…” https://t.co/Sw5LyulxGY
— しいたけ@しいたげられた (@wtnb4950) 2017年8月17日
すると、たちまち次のようなリプライをいただきました。
なんだろう? 文化の盗用(Cultural appropriation)? 何にしても信仰上の理由でまとう衣服をフルフェイスヘルメットや目出し帽と同列に扱っているわけだから見当違いなパフォーマンスですよね。
— くたびれはてこ (@kutabirehateko) 2017年8月17日
「文化の盗用(Cultural appropriation)」まさしくそれです! ご教示いただきありがとうございました!
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ある問題があったとき、その問題に名前をつけたからといって、その問題が解決するわけではありません。しかし問題を問題だと認識する上において、問題に名前があることは、やはり重要だと言わざるを得ないと考えます。
いらんことですが、こうした心的効果自体にも「ルンペルシュティルツキン現象」という名前があるそうです。ソースは『マーフィーの法則―現代アメリカの知性』という本です。ただし検索してもネットにはソースが見当たらなかったらしく、かつてはこの語での弊ブログ記事への検索流入がしばしばありました。ドメインパワーが落ちてからは、めっきり少なくなりましたが。
ほんとうにいらんことでした。閑話休題。なぜ「文化の盗用」という語にこだわったかというと、少し前にネットで次のような記事を読んだ記憶があったからです。「文化の盗用」で検索したら、再発見できました。
リンクを貼ったカラパイアの記事は、「文化の盗用」を批判する側に冷淡なトーンで書かれています。しかし、「文化の盗用」が問題になる局面というのは確実に存在すると考えます。カラパイアの「日本風のお茶会」は主催者側に悪意は感じられませんでしたが、最初に掲げた朝日新聞デジタルの記事では、ブルカの着用は悪意あるパフォーマンスと受け取らざるを得ません。
アメリカのお茶会に関しても、悪意こそ感じられぬとはいえ、合わせが逆であるとか、白塗りはあんなふうにしないとか、気になる点はそれこそ山のようにあります。私は「まあいいか」と思う一方、率直に言って「きれいじゃない」とも感じました。一般に伝統衣装とかドレスコードとかいうものは、複雑かつ微妙なもので、きちんとルールを踏まえるのであれば指導者が必要であり、他の文化圏の者が、見よう見まねでコピーできるものではないのです。それでもなおかつ他者の摸倣を許容するかどうかについては、人によって意見が分かれる余地があると思います。
他の例としては、「お茶会」で連想したのですが、「ボストン茶会(ティーパーティー)事件」は、現在でも記念行事が催されると言います。事件自体の歴史的な評価は今は措きます。行事の場では、史実を踏まえて、アメリカ先住民の扮装をして羽飾りなどを身に着けた白人の集団が、積荷の紅茶に見立てた包みを海に投入するパフォーマンスが繰り広げられるそうです。かなり保守色の強いイベントだそうです。そこにはアメリカ先住民文化に対する蔑視、少なくとも無理解は、確かに存在するように思われます。一方で、イベントを断固として擁護する層が確実に存在することも、容易に想像できます。
どちらの立場に立つにしろ、そこに議論の発生する可能性は疑いなくあるわけで、そうすると議論のために「言葉」もまた必要になるというわけです。
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世の中が多様化、複雑化するにつれ、我々が直面する問題や議論されるべき論点も、また増加するでしょう。そのたびに必要となる語彙も、増加の一途となることが予想されます。しかし多様化、複雑化した社会の方が、過去の一見均質で単一の善悪の判断基準しか持たない社会と比べ、より強靭であり、より多くの人間に幸福追求の可能性を与えることを、我々は経験的に知っています。そうすると、新たな語彙の習得や、新たなイシューに関する議論をためらわないことが、多様化、複雑化した社会を維持するために、我々が分担すべき、あるいは分担が可能な負担であるのかもしれないと、そんなことも併せて考えました。
ネットで見たけど思い出せない言葉は他にもまだありますが、思い出すとっかかりが見つけられないでいます…
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