しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを要求しない

桜井啓子『シーア派―台頭するイスラーム少数派』(中公新書)

イスラーム教の預言者・ムハンマドが世を去ったあと、教団の長老アブー・バクルが初代カリフ(後継者・代理人)に選出されたが、正統なカリフはムハンマドの従弟で女婿のアリー以外にいないと主張する人々がいた。彼らが「アリーの党派」と呼ばれ、「党派」をアラビア語で「シーア」と言うことから「シーア派」という言葉が定着したという(p9〜10)。
一方、シーア派に与しなかった多数派の人々は、コーランを正しく解釈する知識は預言者の言行(スンナ)に見出すことができると考えたことから、「スンナ派」と呼ばれるという(p19〜20)。
そう説明されるとなんとなくわかったような気になるが、なぜ彼らが、例えば現代のイラクにおいて、お互いに凄惨な争いを争わなければならないのかが、外部者にはよくわからない。ソシュール風味の二分法で「シーア派とはスンナ派でないイスラム者、スンナ派とはシーア派でないイスラーム者」と考えるしかないのであろうか?
たぁ言うものの、イスラームの教義というものがよく整理されて外部者にもわかりやすいのは事実で、例えばイスラーム者の五大義務(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)に加えて、シーア派は「フムス(五分の一税)」と呼ばれる「宗教税」があり、コーランを根拠に「アッラーと使徒そして近親、孤児、貧者、そして旅人」のために使われる(p34)、など、とにもかくにも明快に説明をしてもらえる。これが日本の宗教になると、例えば私が今年、初詣に行ってきた豊川稲荷は禅宗の寺院だが、禅宗とは釈尊の「拈華微笑(ねんげみしょう…ををっ、IMEが一発変換しやがった!Σ(゚Д゚;))という故事に基づいて、インド出身の中国の達磨大師という高僧が体系化したもので、日本には留学僧の道元禅師が伝えて…と説明はできるが、「ではなんでその寺院に賽銭を投げて参拝するのだ?」と訊ねられると、はたと困る。つか自分でもわかっていないのである(強いて言えば、たまに遠出すること自体が楽しいんだけどね)。