しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを要求しない

「誰のための言葉か?」ということ

前回のエントリーで、学生から相談を受けたつか不安をぶつけられた、ということを書いた。
学習を進める上での「何がわからないかわからない」「何を頑張ったらいいのかわからない」「自分にできることが卑小で無意味なものばかりに感じられる」といった不安が、かつて自分も経験したものであり、またそれが東日本大震災被災地に実際に自分の足で立ってみたときに感じた衝撃と似通っていると感じた旨を書いた。
そこで、自分なりに言葉を尽くして、なんとか自分にできるアドバイスを伝えようと試みたのだが、自分の思うところがうまく伝わったかどうか、相手の学生の解決にちょっとでも役立ったかどうか、まるで自信がない。
それで、あれこれ考え続けている。
言葉というものは、自分の体験と結びついて、初めて価値を持つように思う。言葉を材料に捏ね上げたメタな言葉ほど、無意味なものはない。
また体験の背景のない言葉は、陳腐なものに見えてしまうこともある。「自分にできることしかできない。自分にできることをやる」という言葉は、被災地の瓦礫の山を目の前にしたとき、自分に言い聞かせるべき言葉として実感を伴って感じられたのだが、そういう光景と切り離されて日常生活に復帰してから他人に語ろうとしたとき、我ながらもう少し気の効いた言い回しはできないものかと情けなくさえ思えた。
それとは別に、他人に偉そうに説教垂れる権利が自分にはあるのかという疑念が消えない。
ボランティア活動に関して言えば、たった2回、のべ2日現地で活動しただけである。そんな私が、もし何かの間違いで被災者に対して説教じみた口を利いたりでもしたらと想像すると、恐怖のあまり寒気を覚える。そう思うのは、私にはそういう勘違いをしかねない傾向があると自覚しているからである。
では相手が学生であれば、どうなんだ?歳こそ私が上だけど、恥ずかしながら馬齢を重ねているにすぎない。専門知識らしきものも多少は持ち合わせているかも知れないが、それもたかが知れている。ひょっとしたら実は相手の知識の方が上だったということも、大いにありうるのだ。
だとしたら自分がしたことは、被災者に対して説教垂れるような勘違いとは異なると言い切れるのか?
結局、私が感じ私が語った言葉は、私自身に対してだけ意味があったのだと思った。
もし相手の学生が私の言葉から不安の解決の糸口を見つけてくれたとしたら、それはもっぱらその学生自身の経験を背景としたその学生の実力によるものであって、私の言葉はきっかけにすぎないと思った。もしそうなら、「被災者に対し説教垂れる勘違い」みたいな反面教師という意味での「きっかけ」だったとしてもかまわない、と思った。
唐突だが、『歎異抄』にある親鸞聖人の言葉を想起した。
今週水曜日のNHK総合テレビの『歴史秘話ヒストリア』という番組を、たまたま観ていた。『歴史秘話ヒストリア』はこれまで観たことがないのだが、この日のサブタイトル『人はみな、救われるべきもの 〜 法然と親鸞 探求の道〜』を新聞の番組表で見かけて、仏教にかぶれ特に浄土教にイカれている私としては、興味をひかれたのだ。
番組中では、歎異抄に見える「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉が、何度か読み上げられた。
歎異抄』には、数多くの珠玉の言葉が散りばめられているが、わけてもインパクトの強い、逆説的な言葉のひとつだろう。
ただし番組中では、この言葉の詳しい解説はなかったように記憶している。
建永の法難により都を追放された聖人は、北陸・越後・関東・東海と遍歴されそれぞれの地で民衆の教化に努められた。
聖人の言葉を信じようとしない人々もあっただろう。誤解した人々もいただろう。
そのたびに聖人は、教義を磨き言葉を練り、様々な努力を重ねられたことだろう。
その結果、聖人ご自身の言葉により誰よりも救われたのは、聖人ご自身だったのではないだろうか?
民衆を救済しようとして救済されたのは、かつて比叡山での二十年にわたる修行の末に、自力による悟りを諦めざるを得なかった親鸞聖人ご自身だったということではないだろうか?
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉は、そのことを述懐されたものではないかと考えると、すんなりと腑に落ちるものがある。
これも私の身のほど知らずな空想にすぎないのだけど…