しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを要求しない

後日談みたいなもの

とある大学生から、学習上の悩みについて相談を受けた。
なんでそういう相談を受けることがあるのかってのは、例によってオープンスペースにおけるプライバシー自衛ってことでご勘弁ください。
何か具体的に「これがわからない」みたいな相談ではなく、カリキュラムが厳しいことに対する不安をぶつけられた感じだった。
これだけではよくわからないかも知れないが、実際、私もよくわからなかった。
よくわからなかったけど、わかるような気はした。
なぜなら私自身も、学生時代にそうした不安を味わった記憶があるからだ。
目の前に、未消化のカリキュラムや未提出の課題が、どんどんうず高く積み上がっていって、どこから手をつけたらいいのかわからなくなる感覚。
しかも、こちらが手をこまねいている間にも、目の前の堆積物はますますその高さを増してゆく感覚。
こういうとき不安を誰でもいいから誰かにぶつけたくなる気持ちは、決して想像つかないものではなかった。今回の相手が、本当にそういう状況だったかどうかは、冷静に考えると実は確証はないのだが。
学習上の悩みであれば、私のアドバイスはいつもワンパターンだ。
わからないときは、たいてい「何がわからないかわからない」状態であることが多い。
そういうときには、遡れるところまで遡って、「ここまではわかる。ここからがわからない」という境界線を明確にしようとするといい。
「何がわからないかわからない」状態から、「ここがわからない」という線引きができた状態への移行に成功すれば、それで問題は半分解決したようなもんですよ。次のステップとしては、自分で調べるなり他人に聞くなりして、「ここがわからない」という箇所に総攻撃をかければいいのだから。
そんなようなことを、これまでに何度かしゃべってきた。
それに加えて今回は、たまたま同じくらいの時期に、ごく短い間だが東日本大震災被災地の現場を訪れ作業に携わることができた。
あくまでも私の主観で、他人にうまく伝わるかどうか自信はないが、この時の膨大な瓦礫を目のあたりにした衝撃と、未消化のカリキュラムが目の前に積み上がってゆく不安が、なぜかとてもよく似ている気がしたのだ。
よく言われる「頑張れって言われても、何を頑張ったらいいのかわからない。それどころか頑張るというのはどういうことなのかさえ、よくわからなくなる」という感覚だ。
こういう時によく一緒にやってくるのが、無力感なのだ。瓦礫の山の中から、自分の手で一度に運び出せる瓦礫の量の少なさ。また瓦礫を右から左に移動しているだけで、瓦礫の量自体は減りも増えもしていないじゃないか、と感じる空しさ。
自分にできることは、あまりに卑小で意味のないことだけのように感じる。価値のある行為は、自分にはできないことばかりのように感じる。
しかし、最近何回かのエントリーの中で繰り返したように、重機の入らない場所から瓦礫を運び出すだけでも、あるいは木材、金属、不燃物などを分別するだけでも、それこそ人手でなければできないことはある。
さらに大勢が協力して1日がかりでやれば、1日が終わる頃には、それなりの達成感を味わうことができた。
つまり、「頑張る」というのは、「自分のできることをやり続ける」ということに他ならないのではないか、と思ったのだ。「できることしかできないから、できることをやる」なんて言ったら、なんだかあまりにも手垢のついた月並みな言葉になってしまうけどね。
今回はそんなことも、自分の体験にからめて喋ってみた。だが、こちらの思いがうまく伝わったかどうかは自信がない。