読書メモです。長らく積ん読していた本を、少しずつでも読もうとしている。
坂東性純『親鸞和讃 信心をうたう』(NHK出版) を、ようやく読んだ。私が読んだ NHKライブラリー版 は、とっくに版元品切れになってしまっているではないか! 以下、ページは NHKライブラリー版に準拠しています。
P336~に、「正像末和讃」中の次の和讃が引用・解説されていた。
無明長夜〔むみょうじょうや〕の燈炬〔とうこ〕なり
智眼〔ちげん〕くらしとかなしむな
生死大海〔しょうじだいかい〕の船筏〔せんばつ〕なり
罪障〔ざいしょう〕おもしとなげかざれ
解説を要約すると、大意は「釈尊の教えは長い暗夜の灯のようなものである。だから、無明煩悩におおわれた生活をいたずらに悲しんではいけない。生死輪廻を大海にたとえると、そこに浮かぶ船が釈尊の教えである。自分の障りが重いことを嘆くのではない」とのことである。
解説に続く部分を読むと、この和讃の元ネタは親鸞聖人の兄弟子にあたる聖覚〔しょうかく〕法印という天台僧が、法然上人の法要で読み上げた表白文である旨が記されている(ライブラリー版 P337~339)。法印というのは敬称である。
ただし、元ネタそのものは同書中に書かれていなかった。
ひょっとしてネットで拾えないかと思って、検索してみた。
驚くべきことにヒットした! ダメモトのつもりだったのに。
誠知 無明長夜之大灯炬也 何悲智眼闇。
まことに知りぬ、無明長夜の大いなる灯炬なり、なんぞ智眼の闇きことを悲しまん。生死大海之大船筏也 豈煩業障重。
生死大海の大いなる船筏なり、あに業障の重きことを煩はんや。[5]
[5] は脚注である。
5.『正像末和讃』(36)の、
無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ
の出拠。
* * *
WikiArc のページを読んでいてで偶然見つけたのだが、浄土真宗の法要では必ずといってもいいほど読誦される「如来大悲」の和讃の元ネタ(の一つ?)も、この『聖覚法印表白文』であると書いてあった。
如来大悲の恩徳〔おんどく〕は
身を粉〔こ〕にしても報ずべし
師主〔ししゅ〕知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
なお「如来大悲」の和讃というのは『親鸞和賛 信心をうたう』P340の表記で、ネットでぐぐると「恩徳讃」という名称が多くヒットする。
倩思教授恩徳 実等弥陀悲願者歟。
つらつら教授の恩徳を思えば、実に弥陀の悲願に等しきものか。粉骨可報之 摧身可謝之。
骨を粉 にしてこれを報ずべし、身を摧いてこれを謝すべし。[6]
骨をくだいても感謝すべき相手は、もともとは「師主」「(善)知識」一般ではなく、法然上人お一人のことだったのか。
ただし脚注[6]を読むと、諸説ありそうだが。
6. 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
の出拠の一であろう。骨身を惜しまず一生懸命に働く意で、身を粉にし、骨を砕くほど努力することをいう。粉骨砕身(ふんこつ-さいしん)という四字熟語がある。なお『観念法門』p.637に「連劫累劫に身を粉にし骨を砕きて仏恩の由来を 報謝して」と粉身砕骨とあるによるか。
引用部にある “『観念法門』p.637” というのは、(なぜか)手元にある『浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)』(本願寺出版社) かなと思って調べたら、まさしくそれだった。
ネットでは、やはり WikiArc で読める。
【44】 また敬ひて一切の往生人等にまうす。もしこの語を聞かば、すなはち声 に応じて悲しみて涙を雨らし、連劫累劫に身を粉にし骨を砕きて仏恩の由来を 報謝して、本心に称ふべし。あにあへてさらに毛髪も憚る心あらんや。またも ろもろの行人等にまうす。一切罪悪の凡夫すらなほ罪滅を蒙り、摂して生ずる ことを得しむと証す、いかにいはんや聖人生ぜんと願じて去くことを得ざら んや。上来総じて前の問に、「なんらの衆生を摂してか浄土に生ずることを得 しむる」といふことに答ふ。五種増上縁の義竟りぬ。
なお紙の書籍には、「連劫累劫〔れんごうるいこう〕」に「幾劫をもつらねかさねるほどの長い時間。」、「本心〔ほんしん〕」に「仏のみこころ。」、「五種増上縁〔ごしゅぞうじょうえん〕」に「念仏の行者が得る五種類のすぐれた功徳〔くどく〕の因縁〔いんねん〕。滅罪〔めつざい〕・護念〔ごねん〕・見仏〔けんぶつ〕・摂生〔せっしょう〕・証生〔しょうしょう〕の語をいう。」という注釈があった。 またすべての漢字にルビがふってあった。
だから何ということはない。繰り返すが、今回はあくまで自分用のメモである。