しいたげられた🍉しいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

あまり自信ないまま言うのだが霊感商法への対抗方法として伝統宗教にある程度の力があるのではないか(その2)

前置きばかり書いているといつまでたっても本題が書けないので、とっとと書き始めてしまおう。

浄土教の根本経典である浄土三部経、すなわち『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』に描かれた来世すなわち死後の世界の姿の紹介である。浄土教とは唐の善導によって開かれた仏教の一派で、日本では法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗などによって受け継がれている。日本仏教のうちでも門信徒の多い宗派のはずだが、なぜかそれほど知られているようには見受けられない。

 

『無量寿経』において、阿弥陀如来は仏となる前に四十八願と呼ばれる請願を立てた。阿弥陀仏しろしめす極楽浄土はこの四十八願を実現した世界で、浄土教の教義では信者はその生涯において仏名を10回唱えるだけで(時宗は1回だけで)ここに転生できるとする。

 

原典は wikisource さんからお借りし、岩波文庫『浄土三部経 上: 無量寿経』、中公文庫『大乗仏典〈6〉 浄土三部経』を参照しつつ、私がポイントと考える部分を紹介します。浄土三部経の知識をお持ちの方には「なにを今さら」と思われることでしょうが。

ja.wikisource.org

第一願

白文:設我得佛 國有地獄餓鬼畜生者 不取正覺

私訳:「もし私が仏になれたとしても、わが仏国土(=極楽浄土)に地獄、餓鬼、畜生の三悪道があるようなら、私はあえて正しい覚り(悟り)を得ません」

「設我得佛」と「不取正覺」は決まり文句なので、以下は簡略化のため省略します。

 

第二願

設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺

「極楽浄土に生まれたものは、ふたたび三悪道に堕ちることはありません」

てな具合に。

 

第三願

設我得佛 國中人天 不悉眞金色者 不取正覺

「極楽浄土に生まれたものは、みな金色に輝いています」

仏像や仏壇に金箔が貼られているのは、この願を踏まえたものと言われる。

この願はやや奇矯に思えなくもないが(いくらでも弁護は思いつくけど)、基本的に極楽浄土は現生すなわち我々の住むサハー(娑婆)世界とよく似ていると言えそうである。仏典にはもっと奇抜な仏国土もあるのだ。

ただし先に言ってしまうと…

・極楽浄土では前世の記憶を保持できる

・極楽浄土ではほぼほぼあらゆる望みが叶えられる

の二点が、娑婆世界との違いである。

 

第五願

設我得佛 國中人天 不識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺

「極楽浄土では誰もが過去ほどんど永劫の記憶を思い出すことができます」

仏教の描く宇宙においては、未来も永遠だが過去も永遠である。サハー世界の我々は前世の記憶を持たないが、極楽では永劫の過去の記憶を保持することができるというのだ。これを「宿命通」と称する。

 

続く第六~九願ではあらゆるものを見(天眼通)、聞き(天耳通)、他人の心を知る(他心通)ことができることなどが述べられる。

つまり極楽浄土の住人は、娑婆に住む我々をヲチすることができるのだ。

ただし彼らは私に干渉することはできない。極楽浄土の住人はほぼほぼあらゆる望みを叶えることができると言っても、他人の運命を左右することだけはできないのだ。四十八願中にそのような条文は存在しないからだ。条文って何だよ? 法律じゃないんだから。

法律ついでに脱線すると、憲法学の「人権を制限するものは人権のみ」すなわち我々の基本的人権は他人の基本的人権を侵害しない限り最大限に認められるという定説を想起させる。させません?

 

第十一願

設我得佛 國中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覺

「極楽浄土の住人は滅度(=涅槃、ニルヴァーナ、永遠にして完全な心の平安の境地)に至るまで迷うことはありません」

浄土教においても究極の目的はニルヴァーナであって、極楽浄土に生まれることはあくまでその手段である。あとの願で出てくるが、極楽浄土の住人はほとんど無限の寿命を持つ。ほとんど無限の寿命を持ち、ほぼほぼどんな願いも叶えられることこそが、涅槃を目指す最適の環境だからだ。

しかし極楽浄土に生まれた者の行く末は、ニルヴァーナの他にもう一通りある。それはこのあとすぐ出てきます。

 

阿弥陀如来の別名である無量光(アミターバ)如来、無量寿(アミターユス)如来の由来を述べた第十二願、第十三願を省略するのはあんまりという気もするが、他に省略している願もあることだし(よけいに悪い?

 

第十四願

設我得佛 國中聲聞 有能計量 下至三千大千世界 聲聞縁覺 於百千劫 悉共計挍 知其數者 不取正覺

「極楽国土の住人=声聞縁覚=涅槃を目指す修行者の数には定員はありません」

第十五願

設我得佛 國中人天 壽命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覺

「極楽浄土の住人には寿命はありません。ただし希望してあえて寿命を縮めようと望むものを除いて」

なんでわざと寿命を縮めようとするかといういと、このあとすぐ出てきます。またしても予告してしまった。うざいですねすみません。

 

第十八願

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法

「極楽浄土に生まれるためにはどうすればいいか、真心こめてそう十回だけ念ずればいいのです」

本願と呼ばれ、四十八願中でもっとも重要とされる願である。浄土教において十念は「南無阿弥陀仏」と十回称えることと解釈されている。本願寺の名の由来であり、十八という数字は歌舞伎の十八番〔おはこ〕やプロ野球投手のエースナンバーでもある。

 

第十九願

設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

「極楽浄土に生まれたいと発願した者が臨終の床にあるときには、私(阿弥陀如来)自身が菩薩衆を伴って迎えに行きます」

「来迎」と呼ばれこれも浄土教のセントラルドグマの一つである。google:image:来迎図 と呼ばれる多数の仏教美術の傑作が描かれている。

 

第二十二願

設我得佛 他方佛土 諸菩薩衆 來生我國 究竟必至 一生補處 除其本願 自在所化 爲衆生故 被弘誓鎧 積累德本 度脱一切 遊諸佛國 修菩薩行 供養十方 諸佛如來 開化恆沙 無量衆生 使立無上正眞之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之德 若不爾者 不取正覺

ちょっと長いので意訳すると「極楽浄土に生まれた者はそれ以上生まれ変わりを重ねなくてもニルヴァーナに至ることができます。ただし娑婆にいる者を救済しようという強い意志をもって娑婆に再転生しようとする者を除いて」。

さきの第十八願すなわち阿弥陀如来の本願力により極楽浄土に行くことの別名を「往相回向」と呼ぶが、極楽浄土に行った者があえてこの世に戻り他者を救済することを「還相回向」と言い、やはり浄土教の最重要教義の一つである。

 

まだ半分も行ってないし、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の話もまだしてないけど、ちょっと一休み。

 

「そこへ行けばどんな夢もかなうというよ」「生きることの苦しみさえ消えるというよ」古い歌を思い出すよね。史実の三蔵法師玄奘が目指した地はガンダーラではなくナーランダだったけど。でも「ナーランダナーランダ」じゃ別の歌になってしまう。「あかしろきいろ♪」。

www.youtube.com

 

ツイッターのFFさんでもある id:Sampo さんのツイートを貼らせていただきます。

惜しむらくは永劫に近い寿命の先に永遠にして完全な心の平安の境地に到達することに触れてないけど、だいたいあってる。

 

自ブログ過去記事より。『火垂るの墓』の清太と節子は省電に乗って戦時中に戻され永劫回帰するのではというネットロアを恐れていた当時のはてなーさんに、あれは来迎なんですよと説明したエントリーである。

watto.hatenablog.com

当該 はてなー さんは今はWordPressとツイッターに行っちゃって はてな にいないので書いちゃうと、原作の野坂昭如と面識がある高畑勲が、そんな解釈をするわけないだろうと内心思った。人間はなんでも悪い方に想像をめぐらす傾向があるのだろう。

とは言え私より聡明で感性豊かなかの はてなー さんのこと、言わんとすることを即座に理解し受け入れてくれたことには感謝(というとおかしいかもだが)の感情を抱いたことを今でも思い出す。カルトのマインドコントロールに嵌められた人の洗脳解除は、そう簡単にはいくまい。

 

鴻上尚史 氏の戯曲に「一人の人生を救うためには、もう一人の人生が必要」という台詞があるという。ネットで検索した限りでは戯曲のタイトルはわからなかった(ご存知の方いらっしゃいましたらぜひ教えてください)。

代わりにこの記事がヒットした。同じ意味の言葉がP6に出てくる。

dot.asahi.com

私はさきの「還相回向」という言葉を強く思い出した。私は決して極楽浄土から娑婆へ転生してきた菩薩ではないが、一人の人間が一生をかけて救える人間は一人だけという言葉には、とても響くものを感じる。

(この項つづく…かな? 自分でもわからない)

追記:

書いた。

watto.hatenablog.com

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