あくまでも私の場合であるが、「自分で創作したい!」という情熱を最も強く覚える場合の一つが、何かしらの作品を鑑賞して、「ここはそうじゃないだろう!」とか「ここはこうしたい!」とか不満を感じた時だ。断っておくがそれはその作品に対する否定ではなくて、むしろ作品により大いに心を動かされた場合に、そういう情動が生じることが多い。
弊ブログにその断片つかエスキース(下絵)を示したことも、何度かある。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』、およびそのコミカライズである本宮ひろ志『赤龍王』に、高祖が秦の社稷を除いたという場面が描写されていないことに対して、自分ならこう描くと考えたのが、こちらのエントリー ⇒「謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(中国編その7) 」
『アナと雪の女王』を観てハンス王子の挙動にいかにも不自然なものを感じたので、つじつまの合いそう(?)な解釈を考えてみたのが、こちら ⇒「『アナと雪の女王』ハンス王子いい奴説というのを半ば本気で主張してみる。そして思い出した意外な人物」
今回は、隆慶一郎『影武者徳川家康』をダシに、そういうのをやってみたい。
『影武者』終盤近くで、次のような人物が登場する。
その異様な男の出現に最初に気づいたのは六郎である。風斎でさえ気づかなかった異変をいち早く察知したのは『不動金縛りの法』に精進した六郎の勘働きだった。
手足が恐ろしく長い男である。それに較べて顔は小さく、それほどの齢でもなさそうなのにひどく皺がよっていた。眼が丸く、善人を絵に描いたような顔だ。総体に猿と云うより蜘蛛に似ていた。その男が突然六郎たちの頭上から降って来た。
男の所作が異様だった。
着地するなり、六郎に対して平伏したのである。次いで忍び刀を鞘ごと抜いて前に置き、手裏剣や撒き菱を蔵めた道具袋も腰からはずし、忍び刀と並べて置いた。
これは無抵抗のしるしである。
≪中略≫
「手前、佐助と申します。猿飛とも云われます」
『影武者徳川家康〈下〉 (新潮文庫)』P245~246 改行位置変更しました。ルビ省略しました。
六郎というのは、フルネーム(らしきもの)は「甲斐の六郎」といい、『影武者』の最重要登場人物の一人である。
甲斐の六郎は元は武田家に仕える忍びで、島左近の命を受け、関ヶ原で徳川家康の暗殺に成功する。その後、複雑な経緯があって、家康の影武者であり本編の主人公である世良田二郎三郎の護衛となっている。「その2」の引用部に出てきたくノ一おふうの夫でもあり、おふうの父は風魔一族の長、小太郎である。
『影武者』の物語世界では、最大の敵は、家康の息子、秀忠である。秀忠はむろん関ヶ原以降の家康の正体が影武者の二郎三郎であることを知っており、天下が定まらぬうちは家康の巨大なカリスマ性を利用したくて影武者を廃することはできないが、機会あれば二郎三郎をなきものにすることを狙っている。
ニ郎三郎と左近、六郎が共同戦線を張るのは、大坂の豊臣秀頼を守るためである。佐助が、主君、真田幸村の命を受けて六郎のもとを訪れたのは、二郎三郎が秀頼をかばっていることに謝意を伝えるためと、秀頼を陥れようとする秀忠およびその配下の柳生宗矩に対抗する戦略を講じるためである。
だが二郎三郎と幸村の努力もむなしく、秀忠の策謀と大坂方の自滅により、形勢は東西手切れと開戦へと傾いてゆくのである。
なお、上掲引用部の少し前に、甲斐の六郎は戦闘により片腕を失っている。また引用部後の六郎と佐助の会話の中に、霧隠才蔵の名前だけが登場する。
ここまでが大雑把なあらすじ。ただし「その1」で『春の雪』を「主人公が宮家に輿入れの決まったヒロインを妊娠させた」と要約したのと同程度の雑さであることは、ご承知おき願いたい。
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さてここで『影武者徳川家康』に対するイチャモンを述べる。大坂夏の陣と言えば、天王寺口の本陣前決戦である。豊臣方が狙うのは家康の首一つ。『影武者』の物語世界では、世良田二郎三郎の首ではあるが。全軍が「錐となって」というのは、誰しも使う比喩である。史実としては、家康本陣にもっとも迫ったのは、真田隊ではなく毛利勝永隊だったそうだが。フィクションにおいてはいつも影が薄い勝永を、なんとかしたいと常々思うところではあるが、今はさて置く。
二郎三郎 v.s. 幸村、あるいは二郎三郎 v.s. 猿飛佐助の直接対峙を描かんのかい!
せめて佐助、才蔵の最期を描かんのかい! なぜなら天王寺口決戦直前に、次のような描写があり、夏の陣の時点で彼らが健在だということが判明しているからである。
五月六日の夜、幸村は頼みにして来た猿飛佐助、霧隠才蔵等の忍びをすべて放ち、情報を集めさせた。狙いは只一つ。家康がどの方面に打って出るかである。
この夜、河内の枚岡に泊まった二郎三郎の本陣で明日の合戦の配置が発表された。総司令官である秀忠の軍勢は岡山口に、二郎三郎の軍は天王寺口に向う。二郎三郎の軍は更に分れて、本陣は茶臼山に向うと云うことになった。
忍びの報告を受けた幸村は、自らその茶臼山に陣を布く決意をした。
上掲書 P390 改行位置変更しました。ルビ省略しました。
私だったらこう書く。二郎三郎は本陣で、十重二十重の親衛隊に護られているとは言え、錐のようになって襲ってくる敵兵が囲みを突破して、たった一人、あるいは二人の刺客を突入させる可能性は否めない。ちょうど本物の家康が物語劈頭の関ケ原において、まさに甲斐の六郎単騎によって暗殺されたように。
さらに秀忠は、隙あらば大坂方の仕業に見せかけて二郎三郎を討たせようという意図の下、配下を二郎三郎の護衛に割り込ませている。すなわち二郎三郎は腹背に敵を受けた状況下にあるのだ。史実とは異なるが、その指揮官に柳生宗矩を充ててもいい。たかだか一分隊の指揮官としては、大物すぎるか? 尉官の仕事を将官がやるようなもの? まあいいや。
それら敵から二郎三郎を護るには、選りすぐりのボディガードを至近に配置するしかない。その任に当たるのは、風魔小太郎と甲斐の六郎である。
案の定、真田隊は、赤備えの正規軍を正面に当てると同時に、怪人ぞろいの別動隊が、二郎三郎の親衛隊を翻弄し、引き離しにかかる。剛力無双の怪僧、槍の名手、火遁の使い手…彼らは惜しげもなく自らの技を披露しつつ、数に勝る二郎三郎親衛隊の、あるいは銃弾に斃れ、あるいは槍に貫かれて、命を散らしてゆく。
そうして引き離した親衛隊を、百発百中の狙撃者があたら捨てがまりの戦術をとり牽制しているわずかの隙に、たった二人の刺客が、二郎三郎を襲う。佐助と才蔵である。
佐助はあらゆる体術の名手、才蔵は、見たものは必ず死ぬので誰も知る者のない必殺技の持ち主という設定にする。
「やはり貴様らが来たか!」六郎が佐助と、小太郎が才蔵と対決する。
六郎の必殺技「不動金縛りの法」は、佐助には当然通用しない。佐助が自分と同じ術を繰り出し、それが自分より強力であることを察知すると、すぐさま他の戦法に切り替える。
原作にはないが、六郎の左腕には、指先に短筒、二の腕に仕込みの短刀などの仕掛けがあるものとする。だが佐助にとって、六郎の左手が義手であることを見抜くのは造作もないことだ。銃弾をかわし短刀を折り、六郎の背後を取ってクナイを首筋に押しつける。ためらいなどない。そのまま頸動脈を切断するつもりである。
だがクナイは肉厚だが刃が鈍い。それが皮膚を破るのに必要とするわずかの時間に、六郎の右手が、後ろ手に佐助の首に巻きつく。
この体勢では力は入らない。だがそれで十分なのだ。
須臾の間に、佐助は六郎の意図を悟る。「馬鹿な! そちらは健常な手だろう!? いや、俺が甘かったのか!」
六郎はかすかに微笑み、掌に縫い込んであった強力爆薬を爆発させる。おのが右手と佐助の頭を吹き飛ばすのである。
いっぽう才蔵と小太郎、そして二郎三郎。才蔵は二郎三郎に狙いを定め、小太郎は二郎三郎をかばって両者の中間に立つ。
初手から才蔵の必殺技が炸裂する。才蔵の黒ずくめの衣装の下には、長さの異なる鎖分銅が仕込まれていて、爆薬の力で八方に飛散させるのだ。
分銅からは、飛散と同時に猛毒を塗った爪が露出し、わずかでも傷つけば命はない。鎖は十分長く、走っては逃げきれない。
これが、見たものは必ず死ぬ「霧」の正体であった。
必然性は薄いが、才蔵はくノ一ということにしよう。この術を使うと、装束はすべて破れ全裸となる。背中に負った鎖をつなぎとめるための鉄環を除いて。
小太郎は、術の正体を知った瞬間、背後の二郎三郎に向けて絶叫する「主上、我を貫きたまえ!」
二郎三郎のアイデンティティは「武士」である。鉄砲は恐ろしかろう。火は熱かろう。毒は苦しかろう。だが武士にとって、至上の武器は剣である。剣こそが最強と信じるからである。二郎三郎は抜刀し突進する。
死中の活は正面のみ。二郎三郎の剣は味方の小太郎と裸身の才蔵を貫き、猛毒の爪の分銅はすべて背後に落ちる。
柳生宗矩の配下は二郎三郎に向けて鉄砲を構えながら、この戦闘を目撃する。やがて鎖の塊と二つの骸の間から、二郎三郎ただ一人がゆっくりと立ち上がる。鬼の形相である。それに恐怖して、誰も引金が引けない。宗矩は「放て、放てぃ!」と絶叫するが、おびえ切った鉄砲兵の耳には入らない。
一呼吸遅れて、血まみれの六郎がよろめき駆け寄り、鉄砲隊の前に立ちはだかる。そして共に先が失われた両腕を広げて、二郎三郎の盾となるのだ。やはり形相は鬼。
ますます恐れおののいた鉄砲兵は、誰も動けない。ええい、とばかり宗矩は、隣にいた兵の鉄砲を奪い、自ら照準を定めようとする。だが手が震えて定まらない。
そこへようやく隊列を整えなおした親衛隊の生き残りたちが駆けつけ、二郎三郎を囲むのである。
こんなのを元ネタから切り離して、独立した作品に仕立てられたら、オリジナルの創作ってことになりませんか?(誰に訊く?
* * *
原作に不満があったからといって、それを基にストーリーが作れるとは限らない。これも事例が多すぎて、具体例を一つ二つ出す方がかえって不自然なくらいだが、こんなことを最初に思い出した。
宮部みゆきに『荒神』という作品がある。ラスト近くでヒロインの朱音が、ストーリー上の必然性あって全裸になるシーンがある。宮部はその情景を、そっけなくしか描いてくれなかった。
『荒神』は朝日新聞朝刊の連載小説で、私は新聞連載時に読んだ。挿絵は『この世界の片隅に』のこうの史代だった。あの絵柄で、ヒロインの全裸シーンを描いてもらえるものならぜひ描いてほしいと思ったが、ぜってー叶わぬ夢だわなぁ。