🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

ヒロシマ・ナガサキ パネル展「原爆と人間」@金山駅コンコース

昨日(8/20)付の2番目の拙エントリー に、今日中に間に合えばもう一記事公開するかも知れないと書いたのは、この記事のことである。

同じ日の行事だったので、個人的な意見は控えて写真と文字起こしを貼れば間に合うかなと思ったが、間に合わなかった。

実は金山駅で乗り換えたとき偶然出くわしたのであって、愛知県平和委員会@aichi_peace さんのツイートは、あとでPeace For Ukraineスタンディングデモの公知リツイートを確認するときに見つけたのだが。

これはつまり「見とけ」ってことだったのだろう。

 

展示は、パネルと、それから現代の高校生の描いた絵画だった。絵画の方には素材を提供した被爆体験者のコメントが寄せられていた。

右側「焼き場の少年」のキャプションを文字起こしする。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。

焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
私は彼から目をそらすことが出来なかった。少年は気を付けの姿勢でずっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
 (ジョー・オダネル元アメリカ海兵隊カメラマンの話『トランクの中の日本』=小学館刊から)

 

ほとんどのパネルのスマホ写真を撮ったが、全部を貼るわけにはいかないから、最初の方と最後の方から何枚かを貼る。

連番2「広島・長崎の原爆」

 原子爆弾の威力
熱線
原爆の火球は爆発の瞬間、数百万度に達し、強い熱線を出しました。地表でも3000℃から5000℃になったと推定されています(太陽の表面温度は6000℃です)。爆心地から600mまでは瓦の表面を溶かし、2km余りの地点でも火災を引き起こして多くの死傷者を出しました、3~4kmまでの所にいた人もやけどを負いました。
爆風
爆発の直後に起きた爆風で、爆心から1.5km内の木造家屋は一瞬にして倒壊しました。市街地の鉄骨建造物も倒壊したり、破壊されたりしました。爆心地から4km離れた所でも大人が吹き飛ばされました。
放射線
核分裂で多量に放出された中性子線とガンマー線は、地上に降りそそいで人間の細胞を破壊したり、DNAを傷つけたりしました。また地上の物質を放射能をもつ物質に変えました。核分裂せず残ったウラニウムやプルトニウムは、火球とともに「きのこ雲」の上昇気流にのって上空に運ばれ、やがて、ちりやほこり、「黒い雨」や「黒いすす」とともに広い範囲に降りそそぎました。

 

3「ヒロシマ あの日」

かっ、と、あたりが真っ白にくらんで焔のあつさが顔と腕をふいた。
両手で目を覆ってはいつくばった。
指の間からあたりの様子をうかがった。
広島の町並みの上に真っ赤な大きな火の輸が浮かんだ。眼の下の小学校の屋根が砂塵のつむじ風に軽々と引きはがされた。
私の身体も空中にすくいあげられていた。
 (肥田舜太郎)

大き骨は 先生ならむ そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり
 (正田篠枝『さんげ』から)

 

4「涙に曇るファインダー」

御幸橋に引き返した。
カメラのシャッターが切れない。
「助けて」「水をください」と哀願するかすかな声。
動く気力もない母親の胸にすがる幼児。
小さい子どもを抱きかかえ「目を開けて、目を開けて」と
子どもの名前を呼び続ける半狂乱の母親。
まさに地獄だ。
頬に涙が流れファインダーを透す情景がうるんでいた。
 (松重美人)

 

5「母の声を背に」

一瞬にして倒壊した家屋。
くずれた屋根瓦、屋根板、土壁。
建物の下のわずかな空間に上向きに倒れている母を見つけた。
顔中血だらけで、横を向くこともできず「肩のあたりをおさえつける物をのけて一」という母の声が聞こえた。
だが、どうにもできない。
火が回ってきた。
最後の別れの言葉をかわして私は逃げた。
般若心経を唱える母の声に後髪をひかれながら
 (岩佐幹三)

 

6「水をもとめて」

水槽には三人、四人と
水をもとめて重なりあって
死んでいる
倒壊した家の中にも
傷ついて横たわっている人

のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水がほしくて
とうとう
あぶらの浮いたまま飲みました
 (長崎・平和の泉の碑文)

 

7「川」

大広島炎え轟きし朝明けて川流れ来る人間筏
(山口彊「ヒロシマ・ナガサキ二重被爆」
 =朝日文庫から)

川には人間がばたばたと飛び込んで
ほとんどがはだかに見えた。
男女の区別さえつかない
死んでいる人
うめいている人
水をほしがる人
がむしゃらにさけぶ者―
この姿を見ない者には話してもわからない。

 

連番後半から。

26「生きぬいて」

私は奇跡的に生き延びることができましたが、
「生きる」とは「苦しみに耐える」ことに他なりませんでした。
私たち被爆者は全身に原爆の呪うべき爪跡を抱えたまま、苦しみに耐えて生きています。
核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。
どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。
私は核兵器が、この世からなくなるのを見届けなければ、安心して死んでいけません。
 (谷口稜曄)

 

27「世界に訴える被爆者」

原爆を投下したアメリカは戦後、占領軍として日本に進駐、原爆報道を禁止しました。困難ななか被爆者は屈せずに原爆の残虐さを告発しました。
日本被団協は、1956年の結成以来、国連や世界の国々に「核兵器廃絶」を訴え続けてきました。
2010年5月、国連本部で開かれたNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議は「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」行動計画に合意しました。
パン・ギムン国連事務総長は「被爆者の命ある間に核兵器をなくそう」と呼びかけました。被爆者の訴えが世界を動かし始めています。

 

29「核戦争を止めてきた被爆者の決意」

人類がこれまで三度目の核兵器による悪夢を避けることができたのは、単なる歴史の幸運な気まぐれだけではありません。第二のヒロシマやナガサキを回避するために世界へ呼び掛け続けてきた被爆者たちの強い決意が、大惨事を防止することに確かに役立ってきたのです。
さらに、平和を希求する被爆者たちを支持してきた何百万という人々がいることや、人類全体が核の使用を自制してきたという現実は、人間にはより健全で崇高な資質、つまり暴力を排し生命を守ろうとする本能が備わっていることを示唆しています。
「ノーベル平和賞受賞者ヒロシマ・ナガサキ宣言」から(2009年5月)

 

30「17歳のあなたへ」

もうすぐ傘寿(80歳)になる私が被爆者運動を続けているのは、「ふたたび被爆者をつくるな」という願いからです。あなたを含め世界のすべての人々に、あの〝地獄〟に遭わせたくないから、あの悪魔の兵器がある限り、私は目を閉じられないのです。
青春を大切にしてください。あなたたちの未来はあなたたち自身のものです。自ら考え、自ら歩んで、自らの手で〝平和と未来〟をつかみ取ってください。それが〝地獄〟から生き残った私の願いです。
 (藤平 典「孫娘への手紙」から)

 

以下は、被爆体験者から素材の提供を受けて現代の高校生が描いた絵の何枚かである。

追記:

少し続きを書きました。

www.watto.nagoya

スポンサーリンク